日韓共鳴二千年史


ヨゼフ・ロドリゲス賞受賞、「韓国を訪問した教師、学生間の交流体験と400枚に及ぶ写真の数々によって描き出される感応する日韓のドラマ」―「これは日韓両国の相互理解に最も貢献した本だ」「日韓両国のバイブルだ」「この本こそ、両国の共同研究の基礎にしてほしい」「韓国人は本当の日本を知らないし、日本人も韓国を知らない。知らないままお互いに反感を募らせている、そんな愚かさを乗り越えさせてくれる本だ」と数々の称賛を受けた名越先生渾身の一冊のガイドラインを展示しています。

「新撰姓氏録」には1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。その中に漢、百済、新羅、高句麗、任那など、約3割強の324氏が渡来系として記録されている。渡来人は日本に融け込み、政治や文化のみならず、技術や生産といった面でも貢献した。朝廷は彼ら姓氏を与え、高い地位を用意した。

檀君陵
檀君陵

第一部 日韓神話の共有性と古代史の感応


品目の子に官昌という若武者がいた。品目はわが子に男子に恥じぬ働きをして、味方の士気をあげるよう命じた。官昌は勇み立って父に「もとより、命はないものと覚悟しております。父上の子です。見ててください」といって馬にまたがり、槍を持って敵陣深く突入した。しかし捕らえられ、階伯将軍の面前に引き摺りだされた。兜を脱がせると、そこには15、16歳の少年の顔が現れる。

 

階伯将軍は「新羅の強いわけがわかった。少年にさえこのような勇気がある」といって、その天晴れさに、官昌をゆるして新羅の陣に送り返した。生きて生還したことを恥じた官昌は再び敵陣へ切り込むと再度捕らえられた。階伯将軍は「敵ながらたのもしや」と歎じて、若武者の首を斬り新羅の陣に届けた。品目はわが子の首を取り上げ滴る血しほをぬぐいながら、「でかしたぞ、倅よ」と目を潤ませて讃めた。それを見た新羅の軍卒は奮起して百済陣に突撃した。さすがの百済も決死の突撃を支えることが出来ず、階伯将軍も戦死して百済は滅亡する。

熊谷次郎直実
熊谷次郎直実

第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信使


1636 年の第 4 回の「回答兼刷還使」からは「朝鮮通信使」と名前が改められて、隣國と間に「信」を「通」かわすという呼称になつた。通信使は 1607 年の第 1 回から 1811 年の200年間に 11 回来訪した。一行は正使、副使、従事官の三使とお供、400人~500人の大世帯で大阪に船で来日して、江戸まで徒歩で向かう。通過する藩ごとに出迎えや案内を含めて3000人の大行列になった。―中略―

 

徳川光圀が天和 2 年( 1682 年)の第 7 回朝鮮通信使(正使尹趾完)との間の書簡が朝鮮総督府に残っていた。内容は光圀は朝鮮が遠く檀君、箕子の遺風を受けて、困難な中、今日に至ったことに敬意を表し、遠路を来日したことへ感謝の意を込めて、3 人の代表者に 300 両を贈った。

朝鮮通信使
朝鮮通信使

第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ


貨幣制度が(ほとんど)なく、ソウルは世界有数の汚く悪臭のする都市であり、一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。道はとにかく悪い。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。―中略―おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。

イザベラ・バード「朝鮮紀行」より


第四部 日韓併合それぞれの苦難


国際的な政治力学は、似たような原則で動くものなのである。日本が韓国に併合された場合を仮定してみるのである。 そうすると案外相互に反日・嫌韓感情を燃やすほどのことはないことがわかるのではないだろうか。案外お互いにつまらないことでいがみ合っているのかもしれない。

 

一つ言えることは韓国の愛国者を売国奴として侮蔑している韓国人と日本の行為を一方的に韓国に阿る形で糾弾している反日侮日日本人は、時代迎合的な輩だということである。

 

朝鮮統治三十五年の光と影より

パゴダ公園のレリーフ
パゴダ公園のレリーフ

第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂


昭和13年(1938年)4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、独立運動家の崔麟らは「これによって半島の民衆も全的に日本国民となるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない」と声明を発表するなど、3・1運動の指導者などが率先して協力を呼びかけたのである。

 

すると、驚くことに昭和16年には45倍もの志願者が押し寄せたのである。儒教国家である朝鮮は親族の許可無くして志願などできないお国柄、背景には圧倒的な朝鮮人の支持があったと見るのが妥当である。東洋の平和を確立するという日本の国家目標が、朝鮮の独立と同一線上にあることが理解されるようになったと言えないだろうか。

行進する朝鮮人志願兵
行進する朝鮮人志願兵

第六部 韓国に尽力した日本人たち


9月3日にはさらに朝鮮人への不信感は異常なまでに高まった。鶴見署は助けを求めてくる朝鮮人を一時総持寺に保護したのであるが、大川所長は暴徒化した市民に「朝鮮人はみんな良民である。警察があずかるのだから心配するな」とさとすが、暴民は警察署を囲み、「朝鮮人に味方する警察署など叩き壊せ」と警察署を取り囲む。所長も意を決して「もし逃げたら、大川がみなの前で腹を切ってお詫びをする」と断固たる態度で対処すると、民衆も落ち着きを取り戻すことになった。


第七部 かかる韓国人ありき[戦後編]


現在の北朝鮮にある龍源という村に金信洛は生まれる。後の力道山である。昭和16年(1941年)彼は序の口として番付にその名を載せる。 東十両4枚目のとき日本は敗戦を迎える。その5年後大関昇進を目前に控えた1950年、彼は相撲を廃業する。折しも朝鮮動乱の始まった年である。そして翌年の昭和56年(1951年)、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が調印される中、力道山はプロレスにデビューする。

 

第七部かかる韓国人ありき[戦後編] 四、北朝鮮・韓国・日本に生きる力道山より

日本と北朝鮮の英雄 力道山
日本と北朝鮮の英雄 力道山

第八部 日韓国民への八つの提言


日本と韓国の歴史は古い。その間不幸な悲劇を生んだ。何故そうなったのか。その背景を相互に深く理解して今後の教訓にしたいものである。そのためには、歴史の歩みに対してお互い、"合掌"するような心構えでゆきたいものである。―中略―

 

第八部 日韓国民への八つの提言 ガイドラインより

国立ソウル顕忠院
国立ソウル顕忠院