第一部 日韓神話の共有性と古代史の感応 二、日韓に生きる王仁博士

1600年を越えたブーメラン現象

世阿弥元清の「難波」は、大鷦鷯の帝(おおささぎのみかど)とその弟、菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の兄弟間の悲劇を題材にした謡曲だが、王仁博士が大鷦鷯の帝(仁徳天皇)へご即位を促して歌ったとされる歌が以下だ。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲く花やこの花

 

王仁博士や渡来した韓国の僧侶や学者は記紀など日本側の資料には名前が数多く出てくるが、韓国の文献には皆無である。

 

応神天皇は生前から長子である大鷦鷯の帝ではなく、その弟の菟道稚郎子を皇太子に定めていた。しかし王仁博士について学んでいた菟道稚郎子は、「長幼序あり」という儒教の教えの影響を受けたのか、兄こそがその器であるとして即位をされない。

 

一方の鷦鷯の帝は弟こそが父応神天皇が定めたご遺志を無視して即位など到底出来ない。お互いがんとして譲りあって、空位が3年も続く事態になる。そのことを心配して大鷦鷯尊のご即位をお勧めする歌が「難波津に…」の歌なのである。難波津は大鷦鷯尊が住まわれた場所であった。ところが弟の菟道稚郎子は「兄が即位しなければ国に迷惑がかかるばかりが」として、現在の京都宇治の地で死を選ばれる、という悲劇がおこる。

 

このような悲劇を乗り越えてご即位された仁徳天皇は聖帝と賛えられることになる。天皇は即位されると民の窮状をを知り、3年間税を免除する。御殿は壊れ雨漏りがするほどだったが、納税を再開するのは、竈から立ち上る煙を確認してからであった。新古今和歌集には仁徳天皇作として次の歌を載せている。

 

高き屋に登りてみれば煙立つ民のかまど賑わいにけり

 

日本書紀によると、王仁博士は応神天皇の15年に阿直岐が渡来して、菟道稚郎子の師となった。応神天皇が「百済にはもっと優れた学者はいないか」と聞くと、王仁を推薦した。翌年2月王仁は論語10巻と千字文1巻をもって渡来した。皇太子(菟道稚郎子)は王仁を師として、典籍を学んだ。阿直岐も王仁も文章を業とする始祖となったという。

 

大阪の枚方市には王仁博士之墓と博士王仁墳がある。ゆかり後には王仁神社がある。このように日本で王仁博士が景仰されていることがきかっけで、戦後韓国に伝わり、日本の記紀を元にした王仁研究が起こり、復活運動が始まる。1987年に韓国では全羅南道霊岩軍朱芸峰に王仁廟を建てる。韓国から渡来した僧侶や学者の活躍を記紀が記録してそれが日本から韓国へ伝わり、韓国で彼らを顕彰するという歴史のブーメランが現象が王仁博士を通して起こったのである。