第一部 日韓神話の共有性と古代史の感応 三、百済は日韓交流のモデルたりうるか

百済・聖明王の鎮魂と仏教伝来謝恩碑

 「日韓交流二千年を通じて、理想に時代があったとすれば、それは百済時代であろう。日韓はこの時代をモデルにしたいものだ」―名越二荒之助 日韓共鳴二千年史50頁冒頭より

百済の古都、扶余の観光名所といえば武寧王陵だ。この武寧王と日本のつながりは過日報道された、朝鮮日報の8月26日の記事に、以下のようなものがあったことでもわかる。

 

天皇が「韓半島との血のつながり」に言及

日本の天皇が1990年、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の訪日の際、天皇家と韓半島(朝鮮半島)の血のつながりについて言及していたことが分かった。朝日新聞はこのほど、当時通訳を務めた金祥培(キム・サンベ)氏(75)とのインタビューを通じ、こうした事実を報じた。

 

金氏はインタビューに対し、「1990年5月24日、宮中晩さん会が終わる直前に、(天皇が)盧大統領に対し、『韓国と相当な縁があると感じている』と語り掛け、雅楽の鑑賞を勧めた。そして、会場へ移動する途中、『わたしの家系を見ると、母方には韓国系の人物がいるようだ』と話した」と語った。その上で同紙は、「盧大統領は当時、天皇が歴史問題に関して『痛惜の念』という表現を用いたことについて満足していなかったが、血のつながりについて言及した天皇の姿勢を高く評価した」と報じた。同紙によると、大統領府は当時、この発言について公開することを保留したという。

 

日本の正史の一つの「続日本紀」は、桓武天皇(737-806)の母親の高野新笠が、「百済第25代国王の武寧王(462-523)の子孫であり、百済の始祖の都慕王の子孫だ」と記している。797年に完成した続日本紀の編さんを担当した菅野真道は、百済第14代国王・近仇首王の子孫とされている人物だ。当時、日本の学術や文化に大きな影響力を及ぼしていた百済系の人物は、「日本書紀」や「続日本紀」など、日本の正史の編さんを主導した。

 

なお、天皇はサッカー・ワールドカップ(W杯)韓日大会の開催を控えた2001年にも、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫だと『続日本紀』に記録されているところを見ると、韓国との深いつながりを感じる」と語った。

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員

 

また2001年12月23日の毎日新聞には、

日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。

 

こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。

 

私自身としては、桓武天皇(在位781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 

しかし、残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して、両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

 【2001.12.23毎日新聞 天皇陛下御誕生日の合同インタビュー記事】

 

という今上陛下のインタビュー記事があり、百済武寧王と我国の関係は非常に深いものがあったことがうかがわれる。陛下のお言葉の通り、日本書紀には百済の武寧王(462年 - 523年)の記述があり、その墓に記された死亡年月日は日本書紀のそれと一致している。日本書紀は当時の韓国の歴史書『百済記』も取り入れ、任那、百済、新羅、高句麗の三国時代の動向についても記述している。

 

武寧王は即位すると北の高句麗を攻め、南の伽耶地方を外交で外交で抑えようとした。伽耶は日本で言う任那のことで、第十代崇神天皇の65年に「任那、蘇那曷叱知を遺して初めて朝貢す」とあり、神功皇后の征韓から日本との関係が深かったようだ。その任那の西側四県を百済が併合したとき、継体天皇6年(512年)で、当時の朝廷は有効な手立てが打てなかった。

 

翌年武寧王は五經博士段楊爾を日本に派遣した。五經は易經、詩經、書經、礼記、春秋で我国には初めての文献であった。武寧王が62歳で崩御すると聖明王(生年不詳 - 554年、聖王ともいふ)が即位する。聖王は高句麗を討ち、漢城の失地を回復する。中国の梁から広く諸文明を取り入れそれを日本に伝えた。欽明天皇13年釈迦仏の金剛像と仏具、経文等を獻上した。

 

仏教は数々の教えの中で最も傑れ、儒学の周公や孔子も知ることが出来ませんでした。広大無辺な教えであって、これを信ずれば救われ、心のままに満たされます。インドから三韓まですべての国が敬っていて、尊ばないものはありません。この教えが東方の日本に伝わることは、仏典にも述べてあるとおりです。

 

(是法於諸法中 最為殊勝 難解難入 周公 孔子 尚不能知 此法能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提 譬如人懷隨意寶 逐所須用 盡依情 此妙法寶亦復然 祈願依情 無所乏 且夫遠王臣明謹遣陪臣 怒唎斯致契 奉傳帝國 流通畿內 果佛所記 我法東流)

 

その年聖王は援軍を求めてくる。新羅、高句麗連合軍が百済と任那に攻勢をかけてきたのである。聖王は任那の復興を願って再三の援軍を日本に乞う。欽明天皇は15年に兵1000、馬100頭、船40隻というものだった。日本軍は善戦するも任那援助にはなかなkならない。日本の援軍がままならない百済は聖王の子、余昌は新羅を撃つため新羅領内に陣地を築く。聖王はそれを援助しようとして新羅軍に包囲され捕らえられる。新羅は馬飼の苦都(こつ)という男に、聖王の斬首をさせ、屈辱的な最後を遂げる。

 

王子の余昌が立てこもる陣地包囲されたが、筑紫の国の住人が敵将を射殺して、雨のように弓を放ち王子を救出した。王子余昌は百済に引き上げたが、弟の恵は日本にやってくる。恵は日本で「父の仇を討とたい。このままでは高句麗よって百済は滅ぶ」と訴えて救援を要請する。日本は武器、良馬、軍船を仕立てて百済へ送り、王子恵を筑紫火君が兵1000で護衛して百済まで送り届けた。新羅は欽明天皇21年9月、日本に朝貢し、22年にも貢物を持ってきた。新羅は日本を油断させて、23年(562年)に任那を滅ぼす。その年の6月欽明天皇は詔を発せられた。

 

新羅は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道にも我が恩義に背き、任那の宮家をつぶしてしまった。神功皇后は聡明で、天下を周行され人民をいたわり養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王が討たれそうになったのを助け、要害の地を授け、栄えるように引き立ててこられた。然るに新羅は任那を攻め、人民の肝を割き、足を斬り、骨を曝し、屍を焼いても、何とも思ってもいない。任那の民のなんと悼しいことか。自分は先帝の徳を受けて、天地の公道を完うしたいのもである。

 

これが宣戦の詔書となって、任那の日本府回復のため、紀尾麻呂を主将、河辺瓊缶(かわべにへ)を副将として新羅討伐に向かう。この562年の出兵から101年後の663年に日本は百済復興のために救援に向かい大敗する。いわゆる白村江の戦いである。百済滅亡は大量の百済人の日本亡命を生み、それらの人々によって飛鳥文化、白鵬・天平文化が開花したのである。現在百済の首都扶余の百済大橋に「仏教伝来謝恩碑」が建っている。

 

明治24年に立正安国会(国柱会)を田中智学師が創立した。智学師はこの碑の建立を発願して、子息の顕一師に朝鮮語修得を命じ、朝鮮へ渡航させる。智学師が昭和14年に亡くなった後、顕一師がその意志を継ぎ尽力したのだが、戦争のため中断、戦後国交が樹立されてから、孫の田中香浦師が実行委員長として祖父の意志を果たした。観光コースでない韓国―歩いて見る日韓・歴史の現場にも紹介されている通り、現在では名所のひとつになっている。百済時代の一時期、濃密な関係が両国にあったことは日韓両国民は記憶に留めておくべきであろう。