第一部 日韓神話の共有性と古代史の感応 五、日韓感応の祕話

百済の階伯将軍と朴堤上、熊谷次郎直実と調吉士伊企儺

謡曲「敦盛」を諸兄は知っておられるだろうか。一の谷の合戦で平家が敗走する中、熊谷次郎直実は一人の武将と一騎打ちとなり、首をはねようとして、兜をもぎ取ると、16 ~ 17 歳位の若武者であった。直実は息子の小治郎が今朝、この合戦で負傷したことを思い、その若者の父親が息子の戦死を聞いたらどんなに嘆くだろうと思い、若武者を殺すことをためらう。

熊谷次郎直実
熊谷次郎直実

しかし近くに源氏の武将土井梶原が50騎を従えているのを見ると、「命をお助けしたいが、あたりは敵だらけである。到底逃げられない。どうせ死なめばならぬなら、我が手で斬ろう。そしてそなたが極楽往生できるように祈ろう」と首を刎ねた。その若者が平常盛の末子敦盛で16歳とわかると、直実は仏門に帰依し敦盛の往生を祈念した。この敦盛の話と似た話が百済滅亡時の黄山の戦いの時のもあったという。

 

新羅の大将金庾信は唐の大群と聯合して、百済を討ち滅ぼうそうと攻めいった。百済の階伯将軍は家族の命をたって後顧の憂いなくして獅子奮迅の戦いをする。新羅は階伯将軍の一騎当千の戦いに三度陣を引き、四度目の攻撃でも苦戦を強いられる。金庾信や欽春、品目等の大将もなんとか勢いを盛り返そうと心を砕いた。

 

品目の子に官昌という若武者がいた。品目はわが子に男子に恥じぬ働きをして、味方の士気をあげるよう命じた。官昌は勇み立って父に「もとより、命はないものと覚悟しております。父上の子です。見ててください」といって馬にまたがり、槍を持って敵陣深く突入した。しかし捕らえられ、階伯将軍の面前に引き摺りだされた。兜を脱がせると、そこには15、16歳の少年の顔が現れる。

 

階伯将軍は「新羅の強いわけがわかった。少年にさえこのような勇気がある」といって、その天晴れさに、官昌をゆるして新羅の陣に送り返した。生きて生還したことを恥じた官昌は再び敵陣へ切り込むと再度捕らえられた。階伯将軍は「敵ながらたのもしや」と歎じて、若武者の首を斬り新羅の陣に届けた。品目はわが子の首を取り上げ滴る血しほをぬぐいながら、「でかしたぞ、倅よ」と目を潤ませて讃めた。それを見た新羅の軍卒は奮起して百済陣に突撃した。さすがの百済も決死の突撃を支えることが出来ず、階伯将軍も戦死して百済は滅亡する。

 

新羅第19代の訥祗王は、弟が高句麗と日本に人質に取られていた。王は宰相の朴堤上に命じて高句麗から王弟を連れ戻すことに成功する。さらに日本にも出かけ、王弟を逃がすことには成功したがと捕らえられてしまう。日本は甘言で誘うが、朴堤上は「自分は新羅の豚になるとも、日本の貴族とはならない」ときっぱりと断る。国王は「汝は不屈の士だが処刑するしかない」として処刑した。朴堤上夫人は悲しみの余生を送った。慶州郊外には望夫石があり、朴堤上夫人は毎日石に坐って夫の帰りを待ち、石に化したという。

 

調吉士伊企儺は任那日本府が新羅によって滅亡させられると、新羅追討の詔がくだされ、大軍が派遣されが、武運つたなく捕虜になってしまう。新羅の鬪將は「"日本の将、おれの尻を喰え"と言え」、すると伊企儺は「新羅王、わが尻くらえ」と叫ぶ。何回やり直させても「新羅王、わが尻くらえ」と繰り返すばかり。とうとう闘将は伊企儺を斬る。一緒に捕らえられた妻大葉子は夫を悼んで歌をよむ。

 

韓国の城の辺に立ちて大葉子は領巾振(ひれふ)らすも日本(やまと)へ向きて

 

これらの話を現在の日本人は全く知らない。日韓相互の美談を知ることは両国民の心を豊かにするのではないかと著者は語る。