第一部 日韓神話の共有性と古代史の感応 四、百済への救援と亡命者の受け入れ

日本人の共感を呼ぶ亡国の悲劇

朝鮮では百済、高句麗、新羅の三国鼎立時代が 1 世紀から 600 年間続いた。日本との関係は百済が特に深かったのだが、660年、唐、新羅連合軍によって滅亡する。百済のラストエンペラーとなったのが義慈王(在位 641 年 - 660 年)だ。即位後すぐに新羅を攻め戦果を挙げたが、やがて酒色に溺れるようになった。忠臣の成忠(あるいは浄忠)はこのことを激しく諫言した。 王は耳を貸さず成忠を投獄する始末。成忠は獄中からも遺書を書き諫言をした。それでも王は見向きもせず、諫言するものを流刑に処した。ついに唐の高宗は蘇定方を大提督に任命して、13 万の大軍で侵攻を開始する。連合した新羅の武烈王も金将軍に命じ、5万の軍を率いて百済を目指す。

6世紀の朝鮮半島
6世紀の朝鮮半島

興首は王によって配流されていたが、取り巻きの群臣は使いを出し策を聞く。彼の策を聞いた王は群臣会議のかけるが、その策は肉を斬らして骨を断つような戦略だったため群臣会議で否決される。興首の策を採用するように主張した階伯将軍は「来世で会おう、さらばじゃ」と宮中を出る。館に帰った将軍は家族に「百済はもう終いじゃ。生きて恥ずかしめを受けるより死んだほうがましじゃろう。父を許せ」と涙ながらに家族の命を断つ。

 

後顧の憂いをたった将軍は呉の 70 万の兵を 5 千の寡兵で破った、越王の勾踐のごとく沈滯していた百済軍を奮起させる。その獅子奮迅の戦いには感動の美談も生まれ、壮絶な戦死を遂げる。扶余に建つ「三忠祀」は百済の 3 人の忠臣(成忠、興首、階伯)を祀った神社だ。日本で言えば「別格官弊社」であろう。また百済の最後に戦死した無数の霊を祀った、護国神社ともいえる「忠霊祀」もある。

 

660 年 7 月 18 日義慈王は降伏して 678 年間続いた百済王朝は滅亡した。部下 1 万 2 千人とともに唐へ連れていかれまもなく病死する。鬼室福信は百済再興に立ち上がり、日本に滞在していた王子、余豊璋に帰国を要請するとともに、日本に援軍も要請した。斎明天皇(女帝)は神功皇后以来の長い関係を鑑み、複信の要請を無視できなかった。老齡を押して救援を決意され、筑紫に重座までされながら、68 歳で陣歿される。

 

皇太子の中大兄皇子は崩御の翌年662年余豊璋にも高位を与え、滯日していた百済軍を混じえた5千名の兵士をつけて、百済に派遣する。鬼室福信は感激して涙を流して感謝したと『日本書紀』に出てくる。翌年3月には上毛野君雅子(かみつけのきみわこ)ら2万7千の救援を差し向ける。三国史記には「倭船千艘」という記述があるほど、日本は国家総力をあげて百済救援に起ち上がったのえある。

 

しかし百済軍に対立が起こり、鬼室福信が暗殺されると戦力ががた落ちになる。663 年 8 月は白村江の陸上では唐と新羅の連合軍、水上では唐水軍と日本水軍の戦闘があり、日本軍は「我ら先を争わば、彼おのずから退くべし」と誓って猛進した。

 

三国史記には「四戦皆破り、其の戦船四百層を焚く。煙炎は天を灼がし海水は血で染まる」とあるように、百済・日本の連合軍は敗れ、余豊璋は高句麗に逃れ、将兵は散り散りになる。扶余の定林寺五重石塔には唐将・蘇定方が戦勝を記念して刻んだ「大唐平百済国碑銘」が残っている。百済滅亡で数千とも言える百済人が日本へ亡命する。日本は百済人に百済の地位に見合う地位を与えている。

 

鬼室集斯は学識頭(よみのつかさみ。文部大臣に当たる)に任ぜられ、鬼室神社のある。佐平(百済の官職で首相にあたる)福信の功によりと書かれており、福信の子ではないか。鬼室集信という名もあり集斯の兄弟かもしれないという。百済救援の失敗は無念であったが、その後日本は国内政治の充実を図り、外交では対馬、壱岐、筑紫に防人を派遣して防備を固める。この防人たちが悲哀を詠んだ歌が『万葉集』の「防人の歌」だ。

 

博多の奥に水に備えたのが「水城」で、筑紫の大野城、椽城などの遺跡は朝鮮式の山城で『日本書紀』が明記しているように、帰化した百済の専門家の手によって造られたものである。また 6 百数十年続いた百済の滅亡は悲壯な美談を多く産んだ。その中でも最も鮮烈で、日本人の共感を得るのが、新羅の降伏することを潔しとせず、貞操を守るべく、高さ 200 メートルの断崖から白馬江に身を踊らせて、集団自決したことだ。

 

大東亜戦争末期、サイパン、テニアンで玉砕戦が続いた。各地で米軍に降伏することを潔しとぜず、女・子供 3 千人が「天皇陛下万歳」を唱えながら断崖めがけて身を投げた。「バンザイ・クリフ」というの地名の由来だ。扶余でも官女たちが飛び降りた岩を「落花岩」と呼んでいる。そこには「百花亭」があり、「官女祀」にはいまも香華が絶えることがないないという。

 

韓国の国定教科書には新羅が唐と連合して百済を攻撃して滅亡させたことが特筆されていが、百済を日本軍が救援に行ったことは記述がない。ましてや百済の亡命者が大量に日本に赴いたことには触れていない。まして日本がその亡命者暖かく受け入れたことは書いていない。日本の役割はすべて無視する韓国の歴史の改竄は一向にやめる気配がない。

 

靖國神社には大東亜戦争を共に戦った朝鮮半島の戦死者 2 万 1 千人が合祀されている。韓国も白村江の戦いで戦死した日本兵を「忠霊碑」に合祀してはどうか。また天智天皇の像を建ててはどうか。相互の立場を理解し共感するということはそういうことではないかと思う。