第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信使 三、毛谷村六助と論介の合同慰霊祭

福岡・英彦山麓に建てられた壬辰倭乱両国軍民人合同慰霊碑

文禄 2 年( 1593 年) 6 月加藤清正、小西行長、宇喜多秀家ら 9 万 2 千の大軍が普州城を囲み、激戦の末たてこもった朝鮮側 5 万余を撃滅した。その後、矗石楼で酒宴を張った。その中に清正軍の武将毛谷村六助がいた。

六助は後に歌舞伎の演目(英彦山権現誓助剣)にも登場する親孝行で怪力、剣の達人だ。妓生の朱論介は酌婦としてこの酒宴に同席してた。ひときわ大きな六助を見て、きっとこれが加藤清正に違いないと思う。彼女は恋人の仇を討つべく、酔いつぶれた六助を背負って、傍らの南江のほとりにある岩の上に連れてゆく。彼女は指輪を六助の指に巻きつけて離れないようにして、もろとも深い淵に飛び込む。敵将を道連れにして水死したのだ。

 

六助に関わる祕話はもう一つある。それは現在、福岡県田川郡添田町上津野の英彦山の麓にお菊の墓がある。住民によって 400 年以上も守られている。お園とお菊姉妹は父の仇を打つため、助勢を毛谷村六助に頼むため、出かけた。英彦山麓に差し掛かったあたりで、妹のお菊が腹痛を起こす。姉のお園は薬と駕籠を求めに村里に走った。そのお園の留守中仇の放った追つ手にお菊は殺されてしまう。村人はお菊を葬り近年まで香華が絶えることがなかったと云う。

 

しかし戦後、山里は過疎化して荒廢した。その土地を昭和 43 年に購入したのが篤志家の上塚博氏だ。氏はお菊お園の祕話から毛谷村六助と論介の話を知り、そこに墓を立てることを発願する。氏は昭和 48 年遍路姿で普州を訪れ、護国寺の釈玄山住職に会い、論介を祀る義妓祠同で慰霊法要を厳修した。その時住職は毛谷村六助の供養も大切だが、論介の霊も慰めることかから入るべきではないか。両国軍官民合同慰霊祭を建てて、一緒に鎮魂祭をやろう」と提言する。上塚氏も異論はなく、「怨みに報ゆるに怨みをもってすれば、怨みは永久に残る」と考えて帰国した。

 

氏は英彦山麓の宝寿院というお寺を建てて、お菊を祀り、境内に 3 つの墓を建立した。全羅北道の石を手配して、御霊代には普州南江義石の近くで小石を拾い、護国寺で入魂した。そうして「壬辰倭乱両国軍官民合同慰霊碑」、「朱論介之墓」「毛谷村六助之墓」三基が完成する。昭和 51 年( 1976 年) 4 月 16 日日章旗と太極旗が翩翻とはためく中、任相宰副領事をはじめ、日韓両国から要人多数が参列して落慶法要が営まれた。

 

その後、毎年旧暦の 6 月 29 日(毛谷村六助と論介がなくなった日)には無窮花(むくげ)の咲き香る英彦山麓墓地と普州矗石楼の両地で、同時刻に両国国旗掲揚・国歌斉唱のもと、鎮魂祭が厳修されている。

 

上塚氏の篤志を踏みにじる韓国の民族運動家たち

「親日派画伯が描いた」…晋州城内論介の遺影はずす 朝鮮日報2005.5.11

慶尚南道晋州(キョンサンナムド・チンジュ)城にある論介(ノンゲ)廟「義妓祠(ウィギサ)」に掛けられていた論介(ノンゲ)の遺影を市民団体会員らが強制的に取り外した。親日派画家が遺影を描いたという理由からだ。 

 

「独島(トクト、日本名・竹島)守護と日本の国連安保理進出阻止を行うための晋州市民行動」所属43の市民・社会団体会員80人は10日午前11時ごろ義妓祠に入り、ガラスの額縁を割った後、壁にかかっていた論介遺影(横80センチ、縦140センチ)を撤去した。

 

晋州市民行動パク・ノジョン共同代表は「晋州城の日帝の残滓を根絶するため、親日派キム・ウンホ画伯が描いた論介の遺影を撤去した」と話した。 警察が出動し、市民団体会員らは遺影を晋州城管理事務所に渡した後、解散した。警察は市民団体のはずした論介の遺影が複写本であるため公用物件損傷罪の適用はできず、慶尚南道文化財資料の論介の廟破損容疑を適用、主導者を処罰する方針だ。

義妓朱論介
義妓朱論介

これらの行為に対する韓国の歴史家の見解はこのようだ。

 

〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち③〉 侵略に命をかけ抵抗した義妓-論介 朝鮮新報 2009.4.10

愛国に身分の上下なし 「論介」の肖像画奪われる?

2005 年 5 月 10 日、晋州城義妓祠に安置されていた論介の肖像画が、その額縁のガラスをハンマーで割られ祠の外に出される事件が起きた。晋州の団体「独島守護晋州市民行動」は記者会見を開き、愛国の聖地である晋州で、その象徴である論介を祀る「義妓祠」に、親日画家が描いた肖像画をそのまま安置することはできないと主張した。

 

その画家は日本の植民地時代、朝鮮の女性たちが金の簪を日本の戦争物資に供出した姿を描いた「金簪奉納図」を朝鮮総督府に収めた人物で、「論介」の肖像画の技法が日本画のそれであり、描かれた論介の髪型や服装が時代考証を経ないでたらめなものだという指摘を 1993 年頃から受けていた。

 

南ではこの事件を受けて、「論介」の肖像画を全国公募、 2008 年 5 月 23 日に忠南大の尹汝煥教授が描いた新しい肖像画が、「論介標準肖像画」として300人が見守る中、「義妓祠」に奉安された。

 

妓生ではなく「側室」?

「論介」。名を知らずとも、倭の侵略軍の武将を抱き川に飛び込んだ女性だと聞けば、「ああ」と首を縦に振る人は多いだろう。だが、彼女の出身地や身分、倭の武将の名など資料は極端に少なく、今も論争が絶えない。愛国の烈女が、妓生や「賎妾」(「太常謚状録」-慶尚右兵使贈左賛成崔公請謚号行状-の文中)では何か不都合だったのか、時代が下るとともに、「賎妾」という単語は「側室(副室)」に置き換えられていく。

 

柳夢寅(1559~1623)が書いた「於于野譚」に論介の記載がある。それは1594年、柳夢寅が三道巡按使として晋州に赴いた折、壬辰倭乱時の犠牲者の名簿を整理する過程で論介の話を聞き記録したものだ。論介の死後1年のことである。後に柳夢寅はこの話を「於于野譚」人倫編、娼妓条に記載せず孝烈条に記載、また「東国新続三綱行実図」が編さんされた時、論介のことが記載されていないことに気づき編纂者たちの姿勢を批判した事実がある。愛国者は「立派」であるべきなのに「賎しい」官妓を女子どもの教育書に載せるわけにはいかないという当時の為政者たちの差別的な視点に対し、愛国者に身分の上下はないと柳は主張したかったのだろう。

 

「於于野譚」の記録は次の通りである。

「論介者晋州官妓也、(中略)、論介凝粧現服、立于矗石楼下蛸岩之嶺、(中略)独一将然直進、論介笑而迎之倭将、誘而引之、論介遂抱持其倭、投于潭倶死(論介は晋州の官妓である。〈中略〉論介は化粧をし、衣服を整え、矗石楼の下にある険しい岩に立った。〈中略〉ある武将が進み出た。論介は微笑みを浮かべると、その倭の将を誘った。そして、ついにはその将に抱きつくと水面に身を投げ共に死んだ)」(「於于野譚」人倫篇、孝烈条)

 

「義巌別祭」、82年ぶりに復元

1740 年、朝廷の命により義妓祠が建てられると、晋州の人々は論介を祀る祭祀を行うようになる。官では祭礼に必要なすべての物資を提供し、その後、1868 年、晋州牧使は再び義妓祠を建て、春と秋2回行っていた祭祀とは別に、毎年 6 月中旬論介を祀る祭礼と歌舞を執り行った。官と民が一体になり官妓を祀るという、朝鮮王朝始まって以来の「事件」であった。これが「義巌別祭」である。当時の晋州牧使・鄭賢碩は妓生の文化に関心を示し、パンソリや音楽にも造詣が深かった。彼が書いた「教坊歌謡」(詩歌と舞曲を収集、記録した本)の中で「義巌別祭」歌舞の項目を見ると、300 人の妓生が三日にわたって祭礼を行い、歌い踊る華麗な大祭典であったことがうかがえる。

 

だが1910 年、日本の侵略により、「義巌別祭」は途絶えてしまう。民族の独立心を高揚させるというのが禁止の理由であった。

 

解放後「義巌別祭」は長らく復元を見ることができず、年老いた元妓生たちにより義妓祠で論介の祭祀だけが細々と行われていた。ところが朝鮮王朝末の官妓であった崔順伊氏(1973 年没)が生前直接参加した「義巌別祭」の全貌を、伝統芸能伝承者であり芸人である成桂玉氏に伝え、興味を持った成氏が1960 年代から「義巌別祭」復元のために研究を重ね、鄭賢碩の「教坊歌謡」を国立中央図書館古文書収蔵庫で発見、これを読み解くために高麗大学で漢文を習得するに至る。1992 年にはついに、「義巌別祭」は復元される。国権の喪失により廃止されて以来実に82年ぶりの再現であった。

 

論介が官妓であれ「賎妾」であれ関係なく、民族に対する侵略に命をもって抵抗したその意思は、今日親日画家の描いた肖像画を外させ、「義巌別祭」を復元させた女性たちの執念に受け継がれ、これからも脈々と生き続けていくだろう。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

 

このような世論が一般的では毛谷村六助と論介の鎮魂も、上塚氏と護国寺の釈玄山住職の祈願もありえないと筆者は思ふとともに、そのような韓国人の偏狭は彼ら朝鮮祖霊への侮辱でもあると感じる。