第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信使 二、敵国の死者を弔う日本の伝統

古代から朝鮮出兵まで

国には古來から敵国人であっても戦いが終れば戦死者を慰霊する風習があった。古くは平将門( - 940年)、藤原純友( - 941年)の「承平天慶の乱」に対しての朱雀上皇、平家滅亡のあとの後白河上皇、義経、藤原泰衡を慰霊した鎌倉永福寺と平家を供養した勝長寿院の源頼朝の例など枚挙にいとまがない。

また元寇のときも北条時宗は元の使者5人を斬首したが、その5人を弔うため滝の口の五重の塔を建立している。弘安の役が終わると弘安 5 年(1282年)に円覚寺を建てて、水没した10万の元軍の戦死者のため1千体の地藏尊を作って奉納した。

 

楠木正成は赤坂千早城に篭城して寄手を翻弄した。この篭城戦の戦死者を寄手塚、味方塚として五輪塔を建てている。塚は敵である寄手塚の方が大きく建てている。

 

後醍醐天皇は建武の中興が成功した建武元年、尊氏に命じて、北条時高邸で夥しい人数が自決したことを弔ふため戒寺を建てさせる。尊氏はその後、新田義貞の戦死を機に、敵味方の慰霊のため、安国寺から始まり、全国に66の寺院を建立している。その中、天龍寺は自らが謀反した後醍醐天皇供養の寺院だ。  

 

悪名高い織田信長は桶狭間の勝利の後、今川方の戦死者を弔ふために大卒塔婆を建て、千部経を供えた。これを今川塚と言っている。長篠の合戦でも、武田方1万余戦死者ため信玄塚を味方の徳川・織田の塚より大きく造っている。

 

朝鮮出兵でも各地で日本軍は敵兵の屍を埋めて弔つてゐる。柳成龍は『懲毖録』で熊嶺で防戦する朝鮮軍を激戰の末、日本軍が勝利するが鄭湛、辺応井らの武将が戰死したあと、「日本軍は。熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、そのうえに標柱を建て、『弔朝鮮忠肝義肝』と書き署した」と紹介して、「これは恐らく、我軍の力戦を賞讚してのことであらう」と結んでいる。

 

朝鮮出兵で赤い鉢巻をして、朝鮮から「紅頭倭最悪」と記録された島津義弘率いる薩摩軍だが、薩摩軍はその大施餓鬼の伝統に沿って敵戦歿者を各地で弔った。帰国すると高野山奥院に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立して供養した。

 

その碑文には「慶長2年8月、全羅道・南原の戦いで明兵数1000のうち、島津で討ち取ったのは438人、同年10月、泗川の戦いで明兵80000余を斃した。ここに味方の戦死者3000余名を供養する」という趣旨のことが書かれている。