第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信使 五、「朝鮮通信使」に学ぶのも "誠信"の外交を貫いた日朝の人々

通信使の起こり

平成 2 年( 1990 年) 5 月韓国盧泰愚大統領夫妻が来日された。 5 月 24 日に天皇陛下に宮中晩餐会に招かれ、全世界が注目した。ここで「両国が真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開くこと」が述べられている。そして江戸時代の「朝鮮通信使」に触れられて次のように続けられた。

270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信義の交際を信条としたと伝えられます。かれの相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東萊に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後のわれわれ両国関係も、このような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう。

 

雨森芳洲や玄徳潤の名を知る人は少ないと思う。

 

徳川家康は 1601 年には対馬の宗義智に命じて朝鮮との国交回復を図る。と同時に出兵中連行した捕虜で、帰国希望者 1702 名を送り返している。(辛基秀氏の『朝鮮通信使往來』によると拉致されたもの70000人、うち帰国したもの4000人となっている)

朝鮮政府も惟政(松雲大師)を日本に派遣して真意を探らせる。使節の名は「探賊使」で、彼らの警戒心が覗われる。

 

その 3 年後の慶長 12 年( 1607 年) 467 名の「回答兼刷還使」が日本に来る。回答とは家康の国書にこたえるという意味で、刷還とは拉致された人々を連れて帰るという意味が込められている。日本は長崎で清国とオランダとは通商を行ない、朝鮮とは 1609 年、釜山に10万坪の草梁倭館(領事館のようなもの)が造られるように通商ばかりでなく人事交流もしていたのである。

 

1636 年の第 4 回の「回答兼刷還使」からは「朝鮮通信使」と名前が改められて、隣國と間に「信」を「通」かわすという呼称になつた。通信使は 1607 年の第 1 回から 1811 年の200年間に 11 回来訪した。一行は正使、副使、従事官の三使とお供、400人~500人の大世帯で大阪に船で来日して、江戸まで徒歩で向かう。通過する藩ごとに出迎えや案内を含めて3000人の大行列になった。

 

日本側は宿泊費から接待費、土産物も用意しなければならず、毎回100萬兩の経費と33万人と馬77000頭かかったという。朝鮮側は30萬両程度の負担があった。日本側も国交回復を祝う使節300名を派遣したが、室町時代に日本の使節(60回以上)が通過した道を秀吉軍が漢陽まで攻め上った悪夢が忘れられず、釜山で歡待されて帰国した。以後日本の使節が漢陽まで行くことはなかつた。日本側の通信使に対する関心は高かかつたという。秀吉出兵によって朝鮮から典籍や陶器、印刷の技術者が日本にもたらされた。その朝鮮から使節が来るというので、日本の文化人はこぞって饗宴に集い、面会を求めたという。

 

徳川光圀は檀君朝鮮から李氏朝鮮前期までをまとめた『東国通鑑』を 1677 年に刊行する。これが江戸時代の朝鮮研究の源泉になる。また徳川光圀が天和 2 年( 1682 年)の第 7 回朝鮮通信使(正使尹趾完)との間の書簡が朝鮮総督府に残っていた。内容は光圀は朝鮮が遠く檀君、箕子の遺風を受けて、困難な中、今日に至ったことに敬意を表し、遠路を来日したことへ感謝の意を込めて、3 人の代表者に 300 両を贈った。

 

しかし尹正使は日本側の対応には御礼の言葉もないが、お金をもらうわけには参らない、古來から挨拶代わりにお金を包む例を聞いたことがないと固辞する。すると光圀は 3 人の清廉高潔な志はわかるが、古人も挨拶代わりに黄金を渡した例はあり、それを受け取っているので、わたしの小さな心を察して受け取って欲しい。これから大きな心で交流を深めて行かうといふ書簡を送つてゐる。尹正使は、お金をいただくことには精神的負担に耐えないが、閣下の御厚意を裏切ることも出来ないので受領すると往簡した。この他、光圀は三使に五言八行の律詩を贈っている。三使も五言八行の律詩で応えている。日朝の間に深い心の交流があったことを窺わせる祕話である。

 

新井白石の改革

足利時代の応永 9 年( 1402 年)に明の使節が来日して、「爾日本国王源道義(義満)…大統暦を班ち、正朔(明の年号)を奉ぜしむ」と申し渡した。義満は翌年、明に「日本国王臣源表す。臣聞く…」といふ書き出しの国書を送って、明に臣従する態度をとった。このような屈辱に公家からも「以ての下」とか「臣の字は天皇に対して使うもの」と痛烈に批判した。義満の長男、義持はそれを恥として、応永 26 年貿易も拒否した。しかし義持の後には「日本国王」として対明貿易を続けた。戦国武将もこのことは苦々しく思つてゐたことが、秀吉の「汝を封じて日本国王となす」といふ、明からの国書に激怒して、明征服のため慶長の役を起こしたのである。

 

江戸時代に国交回復したときには日本側の国書には国王を使わず「日本国源某」や「日本国主源某」(徳川は源氏を名乗っていた)とした。しかしこれでは正式な外交文書として朝鮮側が認めないので、窓口の対馬藩が勝手に「日本国王」と書き直していた。それが 4 回目の寛永 13 年( 1636 年)の通信使の時に露見して、責任者が処分される。それでなんと呼称しようかと考えたのが「大君」だった。それ以後「大君」は対外的な将軍の呼称となったのである。西欧人が書いた文章で「タイクーン Tycoon 」と云つてゐるのは天皇ではなく将軍のことである。

 

ところが正徳元年( 1711 年)新井白石( 1657 - 1725 年)が第 8 回目の朝鮮通信使の接伴役になると、彼は以下の理由から通信接待の改革に乗り出す。

  • 接待費がかかりすぎる
  • 朝鮮が通信使を送つて来るのは武力でかならないので、文章のうまいものを送って恥を雪ぐ(そそぐ)狙いがある
  • 日本の使節には漢城へ行くことを認めず、朝鮮側だけが江戸まで着ている。彼らだけに敵情視察を許している
  • 朝鮮は信義に薄い国だ。秀吉が出兵したときには明に助けてもらいながら、明が清に攻められたときには援軍を一兵も送らなかった。

こうして彼は将軍と三使が面接するときは、将軍の座を一段高くした。接待が天皇の勅使よりも丁重であったため制限を加えた。

 

さらに国書も改変した。朝鮮では次期国王の皇太子のことを世子と呼び、それ以外の王子を大君と呼んでいる。日本国大君では皇太子以下になつてしまうとして日本国王とした。しかしこれに猛然と反対したのが雨森芳洲だった。芳洲は白石と同じ木下順庵の高弟である。朝鮮語、中国語に精通していて、当時朝鮮の窓口であった、対馬藩の外交を担当していた。

 

芳洲は、日本では朝鮮に出兵して、勝ったことばかり吹聴しているが、結局は撤兵している。死傷者数もほぼ同じと云はれてゐる。家康が朝鮮と和平を定義した理由は、朝鮮人の日本に対する怨みが深く、明と組んで復讐戦を仕掛けることを懸念したためであった。近隣の国と親しく交わるのは防衛上「国の宝」である。朝鮮人は詐りが多いと言うが、詐りが多くてどうして国が成り立つであろうか。外国との交際は「誠信」をもって接することである。お互い欺かず、争わず、真実をもって交わることである。

 

日本人は武だけを優先して考えるようであるが、武の上には文がある。

 

「皇統上ニ明ラカニ、覇功下ニ建チ」「其神剣ノ陽ヲ為スノ甚ダ大ナルヲ知リテ、神璽神鏡ノ乃チ本ト為スヲ知ラズ」。

 

芳洲は神剣神璽神鏡の三種の神器を引き合いに出して、日本の国柄を語っているのである。道徳や文化を代表するのが朝廷であり、權力や政治を遂行するのが幕府である。鏡は「明」、玉は「仁」、剣は「武」を表す。武を否定するのもではないが、仁や明根本にあることを知らねばならない。

白石が「日本国王」の国書を送ることに対して芳洲は次のような反論を書いて白石の送った。

 

国王というのは国家の最高主権者を意味する。日本の主権者は天皇である。将軍が「日本国王」と云えば明らかに天皇の上にある。「大君」と云へば、皇太子以下になるとしているが、「大君」の意味は一定ではなく他の意味もある。朝鮮も「大君」で納得しているのに何故敢えて「日本国王」を持ち出すのか…。 

 

幕府に並ぶ者なき学識を誇っていた白石に偏狭の対馬から芳洲は痛烈に批判したのである。白石は「対馬の国にありつるまな学匠等(対馬のような田舎におる生半可な学者が何を云ふ)と一蹴した。その芳洲と意気投合して、釜山の朝鮮側の建物を「誠信堂」と名づけて、外交は「誠意と信義の交際」 であると考え、その信念を貫いたのが玄徳潤だった。彼は通信使として来日の経験もあり、静岡県清水市郊外の清見寺には彼の揮毫による「東海名區」と「潮音閣」の扁額がかかっている。

 

誠信とは相手国のご機嫌を損ふことを遠慮して迎合したり、心にもないことを述べて歡心をを買うことではなく、時には嫌われようとまず自らに忠実でそして相手国の立場も尊重する誠実さが根底なければならない。よって「誠信」の言葉は、現代の私たちのみならず、永遠の響きをもって迫ってくるのである。