第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信使 四、陶祖・李参平之碑

伊万里焼の元祖を称える有田の人々

佐賀藩初代藩主鍋島直茂は朝鮮出兵では北朝鮮の果てまで遠征した。第 2 次出兵が終了した慶長 3 年( 1598 年)忠清道金江から陶工李参平らを連れてかり、氏族にとりたてて金ヶ江の姓を与えてか金ヶ江参平と名乗らせた。かれが有田の地で燒き物に適した土を発見して、つくり始めたのが元和 2 年頃と云はれている。有田焼は伊万里焼とも云はれ、国内のみならず、東南アジア、ヨーロッパでも知られるようになる。

陶祖李参平之碑
陶祖李参平之碑

日韓併合後の大正 6 年、有田焼創業 300 年の記念碑建立の儀が起こり、その 10 月、陶山神社の背後、蓮華石山の景勝の地に「陶祖李参平之碑」が建立され除幕式が挙行された。碑面「陶祖李参平之碑」の書は侯爵鍋島直映の揮毫に成り、裏面の撰文は佐賀中学校長千住武次郎、書は沢井如水である。

 

撰文の現代語訳は「我が陶祖李参平氏は朝鮮忠清道金江の人である。文禄元年、豊臣秀吉公征韓の役の時に鍋島軍の為に力を尽くすこと少なくなかったので、慶長元年藩祖直茂公が凱旋の時同行して日本に帰化させた上参謀長多久安順に世話をさせた。金江の人なので金ケ江の姓を名乗らせたのである。初め小城郡多久に住んで彼が習得し熟練している製陶を始めたが、良い原料が得られなかった。

 

そこで、元和年間、松浦郡有田郷乱橋に来て陶業に従事し遂に泉山で磁石を発見した。それから白川に移住して初めて純白の磁器を製作したのである。実にこれが日本での磁器製造のはじまりである。それからはずっとその製法を受け継いで来て今日の盛況を見るようになったのである。このことを思えば、李氏は我が有田の陶祖というだけでなく日本窯業界の大恩人である。」

(撰文現代語訳は炎の里有田の歴史物語の公開サイトより)

 

碑建立後、有田では毎年 5 月 4 日に陶祖祭が開催されて、昭和 62 年には韓国から前科学技術庁長官の金基衡氏ら 38 名が參列した。以後韓日窯業振興会から 20 数名が參列して祭文を奏上して両国共催の形になっている。

 

有田では平成 2 年 10 月 26 日李参平ゆかりの忠清南道公州郡浦面温泉里龍山国立公園入口に「李参平公記念碑」を建立した。建立の趣意書には「この碑が李公に対する報恩と感謝の意を表し、国際親善と文化交流の象徴として建設されること」を謳っている。平成 5 年には韓日窯業振興会が陶祖碑の前に巨大な韓国式石灯籠を献納した。

 

ところが平成 7 年に大正 6 年に建立された碑の撰文を書き直すようにという抗議が韓国から寄せられた。抗議元は李参平碑文訂正推進委員会で抗議先は有田町と有田商工会議所だ。内容は碑撰文の豊公征韓の文字である。しかし有田町と有田商工会議所はこのやうな趣旨の回答をしたという。

 

碑が建立されたのは大正 6 年である。当時の日韓関係は極めて良好で、李参平300年祭が盛大に挙行された。有田の人々は帰化した李参平に敬意を表し、国境を超えて「陶祖」と仰ぎ、有田の生活の祖として崇めた。だからこれが建碑の精神であり、他意はなかった。よって碑文を訂正する意志はない。

 

前稿の毛谷村六助と論介の合同慰霊祭の結文で触れたが、韓国人の歴史修正癖にはうんざりする。大正 6 年から続いている両国の交流をぶち壊すことは我国の先人の精神を踏み躙るばかりか、朝鮮から參列していた朝鮮人の先人の精神をも踏み躙つている。これら我国と朝鮮に巣食うSM関係にある歴史修正主義者たちを撲滅させないことには、共感的日韓の友好はないと思う。改めて有田の人々の勇気に感謝するのもである。