第二部 秀吉の朝鮮出兵と通信史 一、秀吉の「朝鮮出兵」総括

韓国人ガイドとの論争を通じて

韓国を訪問すると、この寺院は加藤清正に、あの宮殿は日本帝国が云々…、ガイドから説明をうけたことがある。正直料金内とはいえ、日本人観光客にそのような説明をする韓国人の了見を疑ったものだ。では韓国側はどうなのか。高麗は元の尖兵とし1274年文永の役では兵28000人のうち6000人、水夫15000人の内の700人、船900艘は高麗で建造した。1281年弘安の役では蒙古兵、漢兵、高麗兵あわせて40000人、船900艘は高麗で建造した。高麗の忠烈王は、倭寇(日本の海賊。実施は中国人がほとんどだった)の侵害を元に訴えて、日本遠征を懇願した。よって高麗王が元の協力を取り付けて、日本侵略を行ったとしてもおかしくはない。

目黒には清正公と俗称される寺院(日蓮宗覚林寺)があるが、その清正公が加藤清正だということを知る人は意外に少ない。その清正公の菩提寺は熊本県花園町にある本妙寺には清正の墓・浄池廟がある。その浄池廟の北側に殉死した大木土佐守兼余能の墓がある。その南側には"朝鮮人金宦墓"がある。"金宦"とは会計係のことで本名は良甫鑑という。清正と殉死したものは多くいたがかれがなぜ熊本で慕われているのか。良は文禄の役で清正に投降した。その後案内役として日本軍に貢献した。

 

彼は李氏朝鮮の国政紊亂や人心腐敗に耐えられなかったので、日本軍の志操堅固で義烈の風と清正の恩情の厚さに感謝して熊本まで付き添った。慶長16年(1611年)6月14日に清正がなくなると殉死したのである。加藤神社の神幸式には"三つ神輿"が出る。第一が清正公、第二が大木土佐守兼能、第三が金宦なのである。またこの本妙寺の第三代住職も加藤にしたがって日本に来た帰化人で余大男という。地元では高麗上人として仰がれたという。

 

文禄・慶長の役(壬辰倭乱)での韓國側の英雄といえば李舜臣将軍である。かれは亀甲船で2度にわたり回線で日本軍に勝利し、秀吉の意図を頓挫させた。韓国各地には忠烈塔が建立されていて、韓国の教科書にはそれらの愛国美談が満載だ。特に普州の妓生の論介の話は有名だ。

 

ある岩で日本の将帥と遊んでいるとき、日本の将帥(加藤清正の軍の武将毛谷村六助)が酒によっている好機に、論介は将帥を背負って川に飛び込んだ。論介は将帥もろとも川に沈んだ。そこには義妓堂を建てて祀つている。

 

秀吉は朝鮮征伐なぜを行ったのか。戦後の日本は戦国時代から天下統一をした秀吉を矮小化する傾向にある。秀吉はもっと気宇壮大ではなかったのか。当時の世界情勢や、アジア情勢を俯瞰しなければわからないのではないか。スペインやポルトガルはアジア各地を植民地化し日本や明をうかがっていた。キリシタン時代の研究は驚くべきことを明らかにしている。

 

この本は日本にいた宣教師たちがマニアやマカオの宣教師と連絡をとり、國王に進言した書簡をもとに書かれている。彼はスペインのフリップ国王を動かして、まず武力で日本全土を征服し、日本のキリシタン大名を先鋒にして明を征服するのがイエスズ会の構想であった。秀吉の明国出兵構想もバテレン追放もこのような東アジアの緊張関係を考慮しなければならない。

 

日韓併合100年を機に先日も日本の首相が韓国に「日韓併合のような漢民族に塗炭の苦しみを味合わせたことを二度といたしません」のようなお詫びのメッセージを発したが、これほど無責任なことはない。このまま日本が社会主義化して一世代も経てば、北朝鮮と共同して韓国を攻めることだってありうる。つまり「メッセージ」を書いた本人や発した本人は侵略しないと誓えるだろうが、日本がそうしないとはいえないのである。

 

反対に韓国が北朝鮮に侵略されて、百済の時と同じく韓国復興に挙兵して韓半島へ日本侵攻することもありうる。国際情勢によっては韓国に侵攻すること韓国人にとって望ましいことになる場合もある。真の友好とは相互な立場を理解しダイナミックにバランスを保つことなのであると著者は訴えている。