第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 一、征韓論と江華島事件

はじめに

日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになるを読みといて、日韓関係に一石を投じることができれば幸甚だが、著者はこの書籍の読み方として、このようなメッセージを残している。

本書は神話時代から現在までの日韓交流の歴史をトータルに扱っている。いずれも我が国の歴史教科書では教えてくれないことばかりであり、あまりの量に、どこから読んだらいいのか途方にくれてしまうかもしれない。― 中略 ― 

 

ただ日韓関係について、これから取り組もうとおられるならば、まず第六部と第七部から読んでいただきたい。戦後になっても韓国で尊敬されている立派な日本人のドラマ(第六部)と、反日感情に屈せず、日韓友好に尽くした勇気ある韓国人のドラマ(第七部)が紹介されている。きっと「日本人はすべて韓国人から嫌われている」、「韓国人は日本人を憎んでいる」といった思い込みから自由になることができるに違いない。

 

また、近現代の日韓関係について興味のある方は、第三部から読み進められることをおすすめする。朝鮮・韓国の独立運動の歴史とともに、日本と協力関係を築く中で改革を推進しようとした朝鮮・韓国のリーダーたちのことも紹介している。近代韓国の歩みが、決して反日一辺倒ではなかったことをご理解いただけるのではないかと思う。― 中略 ―

 

きっと本書を読み終えるころには、朝鮮・韓国に対する深い敬意の念とともに、我が国の先人たちの歩みに対する尊敬の念もあわせて持つことができるようになっているに違いない。

 

私達が喫緊になさなければならないのは日韓両国民の「和シテ同ゼズの共感的理解」なのであるから、日韓関係の最大のわだかまりである近現代交流史から紐解きたいと思う。

 

西郷隆盛の遺韓外交と朝鮮の動向

1392年李成桂が朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国しました。李氏朝鮮は日韓併合までの5百余年にわたり朝鮮半島を支配しましたが、その末期には江戸幕府同様欧米列強の侵略により厳しい試練に立たたされることになる。この列強の侵攻に対して日本と韓国はどのように対応したか。この対応の仕方が、その後の民族運命の岐路となりました。

 

王朝の長期化とともに政治が混乱し、農村社会は塗炭の苦しみを味わい、腐敗した政治に反発する内乱が相次いでいた朝鮮では、1864年、哲宗のあとを継いで高宗が即位しましたが、当時12歳。そのため実父の興宣大院君が国政の実権を握りました。大院君はかねてから天主教(キリスト教)の侵入に危機感を抱き、フランスからの宣教師や信徒の大量虐殺を行ないました。

 

注目したいのは1864年高宗は12歳位で即位したこと。その3年後の1867年3月に明治天皇が14歳で即位したことと非常に類似している。 この高宗・大院君体制下で韓国は、パワー・オブ・バランスの近代国際政治に対応することになる。

 

1866年にはフランスの宣教師殺害に対する報復である江華島攻撃に対して、韓国軍がそれを撃退した「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」とこの後、1871年には米国が江華島を占領し、韓国軍はその侵略行為に対して撃退した事件を「辛未洋擾(しんみようじょう)」はフランス、アメリカの侵略を撃退した韓国の攘夷姿勢をしめしている。

 

大院君は全国に「洋夷侵犯非戦則和主和売国(洋夷、に侵略されたとき戦わず和を主張するのは売国行為である)」と刻んだ「斥和碑」を建てて攘夷の意志を固めるのである。一方同時期の我が国は明治維新で諸政一新を成し、列国と通商条約を締結をした。韓国にも1811年以降途絶えていた朝鮮通信使の再開を呼びかけ国交の回復をはかったにもかかわらず、朝鮮は清国を宗主国としてこの交渉を拒絶している。

 

さらに国内で反日侮日気運を煽り、「日本は西洋人と交わり、夷荻の風俗に化してしまった。もはや禽獣と異なるところはない。今後は朝鮮人にして日本人と交わるものは、直ちに死刑に処する」という、ビラまで配られることになる。

 

この自体に日本の朝野ではいわゆる征韓論が叫ばれることになる。日本政府はこのような中、征韓党をつくり、征韓計画を練っていた丸山作楽を逮捕投獄した。―この事実は重要である。当時日本政府は征韓論に反対の姿勢を示している―

 

その後明治政府は閣議を開きこの問題を討議すると、板垣退助は軍隊を派遣することを主張した。それに対し西郷隆盛は、

 

「軍隊を派遣たら疑惑を招く。これまでうまくゆかなかったのは官僚に任せたからだ。一国を代表する全権大使を送って、公理、公道をもって説得すべきだ」

 

と言い、大使たるものは武装ぜず、礼装を整えてゆくことを強調しました。WIKIPEDIAでも征韓論を参照するとこうある。

 

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある)

 

西郷の主張を異説として紹介している。これは全くの事実の誤認である。太政大臣の三条実美は遺韓するのであれば軍艦に乗ってゆくことを勧めるが、しかし西郷はこれをきっぱり断り、単身礼服を着てゆくと明言している。著者は韓国近代史の第一人者である李瑄根博士と昭和52年に会ったとき、こんな会話があったと述している。

 

「これまで自分は、西郷隆盛が征韓論の親玉のように誤解していました。もしあの時西郷の遺韓が実現して、大院君と二人で腹を割って話していたら、その後の日韓関係は違ったものになって」いたであろう」

 

と漏らしていた。西郷は勝海舟が大院君との間に交流があることを知っていたので、大院君の内意のようなものを出しいされていたのかもしれない。しかし西郷の遺韓は岩倉具視や大久保利通の反対に合い、閣議決定をひっくり返し実現しないことになる。西郷は辞表を出し下野することになり、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣等も同時に下野したのである。

 

西郷等が下野した政府は明治7年に西郷従道を都督として台湾征討を決定し、翌明治8年(1875年)には江華島事件が起こるのである。この事件に西郷や板垣は激怒する。西郷は篠原少将に手紙で、

 

理由も質せず応戦し、相手を侮って戦争騒ぎを起こした。これは「天理において恥ずべき所為」であり、「要路の人々は天下に罪を謝すべき事」

 

と述べている。また板垣退助は、

 

「西郷の遺韓に反対しておきながら、兵力を持って韓国を威圧するとは何事か」

 

と詰問し復帰していた参議を再辞職するのである。 現在では西郷以下、日本国政府が韓国侵略の第一歩として江華島事件を起こしたという論説が一般的になっているが、確かに西郷等が主張するように日本は韓国に対し砲艦外交的態度で開国を迫ったことは事実である。しかしその件につて日本国内では国論が二分する騒ぎになっていることも事実である。日本が一致団結して韓国侵略を企てたなどという事実はないことがわかる。

 

清国政府は自国内での欧米列強の侵略に手を焼いており、日韓を連合させて防波堤史にしよういう思惑のあり、大院君を失脚させた高宗の后、閔妃皇后に実権を握られている韓国政府へ修好を勧告することになる。

 

日朝修好条規(江華条約)の第一款は「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。」という一文で始まる。これは日本政府が朝鮮が宗主国清国の影響から離脱して独立して欲しいいうことを意味し、日本の朝鮮国(韓国)への基本的外交方針である。日本は韓国侵略を意図しておらず、常に朝鮮半島の自主独立達成を固守するのである。

 

著者は最後にこう結んでいる。

 

日本が、アメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランス等と修好条約を結んだのが、1858年。それより18年遅れての開国と言えましょう。もし江華島事件がなかったら、朝鮮の鎖国体制はその後も続いていたに違いありません。

 

日本が条約を結んだ国はオランダ以外国連の常任理事国である。1858年当時、国勢を極東にまで伸張させていたが、現在もその状況はあまり変わらないのである。韓国は日本が侵略したとしきりに主張し教育しているが、真の侵略者がどこの国であるかに気づいて欲しいのもである。