第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 七、韓国不滅の民族運動

―さらに崔益鉉と羅寅永らに見る

崔益鉉は明治9年(1876年、44歳)江華条約が締結されるときに、これに反対をして彼は、「この条約を受け入れれば国が滅ぶ」という上奏文を書いて抗議をする。上奏文が受け入れられないときには、この斧で私を殺せ!と王宮の前に三日三晩座り込んだ。訴えはむなしく、条約は締結され、彼は3年間島流しになる。一時高宗はかれを政府顧問の要職で王宮で奉仕したが、晩年は故郷の京畿道抱川で儒学を教えていた。しかし73歳の時、日韓保護条約が上程されると、再び韓国が滅びるという、条約締結反対の檄を書き、十三道の儒学者に決起挙兵を呼びかける。

呼びかけに応じた百数十人が集まったのは明治39年(1906年)で武器を奪い蜂起し、最盛期には900人まで膨れ上がった。しかし直ちに日本軍に鎮圧される。伊藤は処刑を禁じ監禁3年、対馬に島流しにする。崔益鉉は翌明治40年1月1日に亡くなるが、当時の日本人は崔益鉉の最後に感激して遺体を丁重に韓国へ送り届ける。対馬には今も大韓人・崔益鉉先生殉国之碑が建っている。

 

羅寅永は日露戦争に日本が勝利すると直ちに渡日し、ロシアに対する宣戦の勅書に韓国の独立を約束てあるとして、韓国の国権回復に奔走する。しかし日本に外交権を売渡し首都に統監が置かれ、伊藤が初代統監として着任する事態に、政府内の奸賊を処断しない限り韓国の独立はないと、羅寅永は洪弼周や呉基鎬らと自新団を組織して、日韓保護条約に賛成している5人の奸賊暗殺を企てる。

 

明治40年3月25日、斬奸状を懐にして、大臣ら襲撃しようと配置に付くが、警戒が厳重で全員逮捕されてしまう。彼らは斬奸状の他、ハングルで書かれた同盟の歌と題する、75調で322行の長文の歌を所持していた。全文を紹介できないが日韓共鳴二千年史から一部抜粋する。

 

怨むなよ怨むなよ 日本人を怨むなよ

日本人あらざれば 露国の強暴免れじ

龍岩浦をば犯せしを 友邦日本の兵力で

之を千里に駆逐せり 是れ恩徳に非ざるか

我が政府に人在りて 内治外交を料理せば

日本の如き文明が 野心を起こす理あらん

大韓国勢強勢に 東洋平和の維持あるに

大逆無道の国賊が 君を売り国を売り

自ら請うて譲与す 争奪繁きこの時

 

筆者はこの歌を旧約聖書のエレミヤ哀歌と対比してこう述べる。

  • 旧約聖書に載っているエレミヤ哀歌は、紀元前6世紀に書かれた散文詩である。5章から成り、全部で476行に及び、同盟の歌より長い。この有名な哀歌は、エレサレムを滅ぼされ、バビロンの捕囚された民族の悲劇を預言者エレミヤが描いたと言われている。包囲の恐怖と、荒涼たる廃墟の中に、苦難と絶望と神の怒りとが織りなされ、亡国を描いた不屈の名作として語り伝えられている。ここに紹介した同盟の歌は(三年後に)亡国を予感しながら、何かを訴えずにはおれない切迫感を、大衆に判りやすく歌にしている。日本に併合された後、羅寅永はどんな亡国の歌、民族絶望の歌を書いたのだろうか。
  • 羅は日露戦争に勝利した日本の役割を評価している。そして韓国民に、責任を日本になすりつけるのではなく、韓国の政治家自身の責任を問う態度を貫いている。
  • 韓国の主権が次々と奪われていくのに対して、日本を批判しながらも国民自身の目覚めしかきいを救う道はないことを強調している。責任を他国に押しつけず、自国民に独立心の振起を呼びかけている。

羅寅永(弘岩大宗師羅喆)と呉基鎬はその後民族精神を覚醒を促すために、朝鮮の始祖である檀君信仰を発展させて大倧教を創立した(明治42年1909年)。大倧教は当初総督府から弾圧を受け、1916年羅寅永は自決した。第二代教主の全教献は併合後満州で布教活動を行ない、併合後満州で結成された独立軍の指導者・金佐鎮も信徒であった。戦後は本部をソウルに移し、関天節には摩尼山で式典を行っている。