第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 三、東学党の乱と日清戦争

民族運動の登場と独立自尊の教訓

東学党の東学とは、西洋キリスト教の学問「西学」に対比して、朝鮮の民間信仰と儒・仏・道教を一体化した「東学」を1860年崔済愚(水雲大師)が提唱した宗教運動を指す。崔済愚は同時に尚武の気風を起こし、武道や剣舞も奨励した。

また彼が奇蹟を起こすので、東学は困窮していた農民の間で爆発的広まりを見せて、あっという間に数十万の信徒に膨れ上がった。しかし政府は「万民平等」の宗旨を危険視して、1864年「世を惑わし民を惑わす」邪教として崔済愚教祖を斬刑する。彼は刑に臨んで、

 

龍潭水流四海源 亀岳春回一時花(自分一人を殺しても、水は流れて大海となる)

 

という辞世詩を遺す。第2代道主崔時亨は、大院君と閔妃との争いから政治は乱れ、賄賂が横行していた当時の政治に敢然と立ち上がり、「尽忠報国」「掃破倭洋(日本と西洋の打破)」の旗幟を掲げて、非暴力を信条として抗議やデモで訴えたいた。しかし政府側が武器を使用するようになると、武器を奪い、これに対抗するようになった。東学党の乱の始まりである。

 

その後、東学党軍には全琫準というリーダーが現れ、義軍として支持を得るようになる。彼は「済生安民」「侍天開闢」「除暴救民」という革命精神を軍事行動に結びつけた。士気の挙がらない政府軍をよそ目に東学軍は全州一帯を悉く占領し、明治27年5月4日(1894年)白山で四大綱領を宣言する。

  1. 人を殺さず、財産を奪わない。 
  2. 忠孝を尽くし、世を救い民を安じる。 
  3. 倭夷(日本)を滅し、聖道をを明らかにすること。 
  4. 兵を率いてソウルに入り腐敗した官僚・貴族を滅ぼす。

この乱鎮圧に再び朝鮮駐留清国軍の袁世凱は閔永駿首相に協力を申し出る。さすがに閔首相も躊躇するが、全州陥落の報に派兵要請をすることになる。袁世凱は直ちに1500名の兵を牙山に進駐させる。日本も天津条約に基づいて7000名を仁川に上陸させて配置させる。

 

この動きに当惑したのは東学軍でした。彼らの蜂起は「両班戚族の虐政」に反対して、「貪官汚吏の追放」が目的で外国軍の介入など思いもよらなかったのである。東学軍はこの事態に政府軍と和睦して全州から撤退するのである。和睦の内容をいくつか上げると、

  1. 東学党と政府の長いしこりを洗いさること。 
  2. 不正腐敗官吏や横暴な富豪、両班等は処罰すること。 
  3. 理由のはっきりしない税金はかけないこと。 
  4. 土地は均等に分配工作できるようにすること。 
  5. 官吏採用に当たっては、一切の門閥を打破し、公平に人材を登用すること。

政府軍も東学軍も日清両軍を撤退させることが目的の和睦でしたが、期待が外れ、朝鮮は日清両国軍の戦場となり、こともあろうに政府軍は条約を破って農民を攻撃するのである。12月28日全琫準以下幹部は捕縛され日本大使館の獄に投ぜられることになる。 

崔済愚
崔済愚

日本は捕まえた全琫準の高潔さと見識の高さを評価して朝鮮側に死刑にしないよう働きかける。しかし朝鮮政府は明治28年4月23日(1895年)公使の帰国中の留守を狙って幹部6人を死刑にし、全琫準をさらし首にするのである。享年41歳辞世詩は、

 

時来天地皆同力 運去英雄不自謀

愛民正義我無失 愛国丹心誰有知

時運がめぐって来たときには天地と共に力を同じくして来たが、

運がされば英雄も自らを謀ることはできなくなった。

愛民と正義に生きた私には何の過失があるだろうか。

国の為に尽くした真心は誰かわかってくれるだろう。

 

二代教主崔時享は1898年絞首刑となる。三代教主孫秉熙は後に日本へ亡命して帰国後、天道教を設立する。また李容九や宋秉畯らは「一進会」を組織して日露戦争時献身的協力をすることになる。

 

東学党の叛乱によって条約に基づいて出兵した日清両国は朝鮮半島で激突することになる。日本軍は海戦、陸戦で清国を圧勝する。日清戦争の原因は国内の内乱を再び鎮圧依頼を清国側にした朝鮮政府にあるといえる。日本が望んだ朝鮮の自主独立は内乱の鎮圧ができないといった形でむなしくも崩れ去るのである。このような朝鮮政府の姿勢を事大主義と呼んでいる。

 

そのような朝鮮政府の姿勢の中、東学党は独立自尊の精神を説き、万民平等を謳った。現在の韓国の中学『国史』教科書では、「東学革命は、たとえ失敗に終わったというものの、これは広範囲の農民たちを背景としたわが国史上最も大きい農民戦争であって、自らの改革運動であり、外国勢力を追放する民族運動であり、革命運動であった。」としている。

 

明治28年1月(1895年)に親日的であった金弘集内閣は日本の武力を背景に甲午更張を断行する。その内容を韓国人アンドリュー・ナム氏(ミシガン大学教授)は、「甲午更張とは、日清戦争に勝利しつつあった日本が、比較的親日的であった金弘集内閣を中心に断行した改革です。1895年(明治28年)1月7日、国王が歴代王室を祀る宗廟の前で国政改革の基本方針である洪範十四条(韓国の教科書でも特筆されている)を宣布しました」

 

ナム氏は日本の武力を背景に断行したとしながらも、「甲午更張の内容は科挙制度の廃止と官吏任用法の採用で、両班・常民の階級差別をつけず、あまねく人材を登用することであった。裁判所と警察制度も新設された。そのほか人身売買の禁止、早婚の禁止、寡婦の再婚承認、罪人の連座法廃止などが含まれていた。」

 

と東学党と日本の果たした役割を評価している。