第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 九、安重根と伊藤博文

二人の合同慰霊祭を営む心で

伊藤博文と安重根は日韓関係において過去も今後も一番のテーマだと思う。著者も書いているが、韓国人に韓国の偉人を聞くと、李舜臣将軍とともに必ず名前が上がるのが、安重根義士である。日本側から見れば伊藤博文公を暗殺した殺人者である。この両者の両国の評価は常に割れることは当然であり、またこの両者を相互に理解することこそ、日韓の和シテ同ゼズの共感的理解を促進する近道なのだと思う。

伊藤公と安重根の韓国側の評価を端的に表す逸話として、伊藤公が1000円札の肖像画になった時の韓国側の猛烈な抗議や日本の高校の教科書が安重根を「安重根壮士」と記述したところ、「壮士」には「ゴロツキ」という意味があると抗議を受けて、指導書を書き替えたということがある。韓国にとってはあくまでも政治的には英雄でなくてはならないのである。

 

安重根は1879年(明治12年)黄海道の海州で両班の長男として生まれる。生まれたときにホクロが七つ合ったことから応七と名付けられるが、せっかちな行動が目立つので父親から重根とあらためて命名される。幼い頃から狩りをして過ごし、その射撃術は狙った獲物を逃したことがないと有名だったという。

 

安重根一家は日清戦争後にカトリックになり、日露戦争の激戦下、フランス人神父から「韓国の将来は危ない。ロシアが勝てば、ロシアが韓国の主人となり、日本が勝てば日本の管理下に置かれる」と言われ愕然とする。しかし彼は日露戦争の意義を東洋平和論の中で日露戦争における日本の役割をこう評価している。

 

日本の天皇の宣戦の勅書には、東洋平和を維持し、大韓独立を強固にすると書かれていた。このような大義は、青天白日の光線より勝っていたのであり、韓・清の人々は知遇を論じることなく、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。

 

もう一つは、日露の開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日までの日本に対する仇敵の心情がたちまち消え、かえって一大愛種党となるにいたったのであり、これまた人情の順序であり、理にかなうものであった。

 

快なるかな、壮なるかな、数百年来、悪を行ないつづけてきた白人種の先鋒が、鼓を一打しただけで大破してしまったのである。(日露戦争の勝利は)千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。だからこの時、韓・清両国の有志は、はからずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ。

 

安重根は日露戦争の勝利をこのように快哉している。日露戦争の日本の勝利が、当時のアジア独立運動家達にどのような影響を与えたのかこの一文を読んだだけでも 伝わる。しかしその後の経緯はフランス人牧師の予言通り、韓国は第一次日韓協約から第三次日韓協約で日本の管理下に置かれることになる。この経緯は八、高宗皇帝の退位と義兵闘争でふれているが、日本政府の韓国独立への希望むなしく、合邦への道は、最終的に伊藤博文総監が日本の国内世論に引きづられる形で進むことになる。

 

第三次日韓協約で高宗皇帝が退位し、軍隊の解散命令が発布され、全国に義兵運動が起こる。安重根もこのゲリラ活動に加わり、連合大韓義軍が組織されると参謀中将になる。

 

しかし日本軍には到底かなわず、ウラジオストックへ亡命する。ここで韓国人有志を募り断指同盟を結成するのである。断指同盟とは、左手の薬指の第三関節から切断して国旗に、大韓独立と血書して決意を固めたことに由来する。

 

明治41年(1908年)3月、安にとって刺激的な事件が発生する。韓国の外交顧問でアメリカ人の、ドーハム・スティーブンが帰国した際に記者会見で次のように発言する。

 

韓国の王室と政府は腐敗しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚昧に過ぎる。これでは独立の資格なく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤総監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない。

 

この発言に在米韓国人・張仁煥は激昂し、発言を撤回するように求める。しかしスティーブンは発言を撤回しなかったため、張はスティーブンを射殺する。

 

安はこの事件を知ってスティーブンは日本の傀儡で彼を操作しているのは伊藤総監だと決め付ける。彼を撃つべきだと決意するのである。

そして1909年(明治42年)10月16日門司港をハルピンに向かって出航すると、安はかねてからの計画を実行すべく、愛用ンのブローニングを持って、ハルピンに旅立つのである。伊藤公は大連に着くと旅順に立ち寄る。伊藤公は乃木将軍が水師営で、ロシア軍将兵に見せた武士道精神が忘れなれなかったのである。

 

乃木将軍は昨日の敵は今日の友であるとして、相互の勇戦をたたえ、ロシア軍の墓地を日本軍のそれより先に整備し慰霊祭を行った。伊藤公はそのロシア軍墓地に献花をしている。

 

安は10月22日同志の禹徳淳とともにハルピンに到着する。伊藤公の到着を26日と知ると、24日には即興で漢詩をつくるのである。

 

大丈処世兮其志大矣 時造英雄兮英雄造時

雄視天下兮何日成業 東風漸寒兮壮士義熱

憤慨一去兮必成目的 鼠窃伊藤豈兮肯比命

豈度至此兮事勢固然 同胞同胞兮速成大業

万歳万歳兮大韓独立 万歳万々歳大韓同胞

 

詩で安は「日本の圧力の前に我が韓国は危機の瀕し、壮士の正義の心は熱している」と自らのことを壮士と言っている。昭和61年の高校の教科書で安重根のことを安重根壮士と記述したところ、韓国から壮士にはゴロツキという意味があると抗議され、日本に文部省は教科書の修正に応じたが、壮士と安重根自身が称しているのである。いかに日韓双方が歴史に無知かがわかる。

 

安は計画通り伊藤公に7発の銃弾を放ち射殺する。彼はロシア語で「コリア・ウラー」とロシア語で3回叫び直ちに取り押さえられた。

(現在では安重根の放った弾丸は伊藤博文にあたらず隣にいた日本人にあたった。伊藤の致命傷は背後から(ハルビン駅の二階食堂)飛来した弾丸だった、という説が有力である)

 

韓国人が公を殺害したことは、特に悲しむべきことである。なぜかと言えば、公は韓国人の最も良き理解者であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以て韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時武闘派および言論機関は高圧的手段に訴うべしと絶叫したが、公ひとり穏和方針を固辞して動かなかった。

 

当時、韓国の政治は、徹頭徹尾腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下にあることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を越えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。

 

韓国宮中には衝撃が走る。太皇帝(高宗)は伊藤の死について「伊藤を失ったことは、わが国とはいわず、日本のみならず、東洋の不幸である。

 

その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない」と語った。また民間では朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけて、渡日謝罪十三道代表臨時会議所をもける団体もあった。そして実際に伊藤公の墓前で謝罪文が朗読されている。

安重根は旅順にある裁判所に連行され取調べを受けるが、彼は伊藤公を敵視した理由について15項目をあげている。

  1. 閔妃殺害事件
  2. 5年前の条約
  3. 3年前の13か条の条約
  4. 韓国皇帝の廃位を計ったこと
  5. 韓国軍を解散したこと
  6. 義兵を殺した
  7. 韓国の政治権利を奪った
  8. 良好なる教科書を焼却した
  9. 新聞の購読を禁じた
  10. 不良韓国人官吏に職を与え、第一銀行券を発行している
  11. 国債を2千3百万募り、官吏で分配した
  12. 東洋の平和と称しながら、韓国皇帝を廃位にするなど当初の宣言と異なる
  13. 韓国保護条約に名を籍りて韓国政府の一部と意見を通じ、韓国に不利な施策を行っている
  14. 現天皇の御父君にあたられるお方(孝明天皇)を殺した
  15. 世界各国に対して「韓国は無事なり」と宣伝し、事実を欺いている

著者は一つ一つにコメントを付けているが、1.5.10.11.14.15.ほとんど事実無根である。その他のこともこれまで概観してきた内容で充分日本の立場は説明つくであろう。

 

安重根は日本が自分のことを義士として扱っていることに驚く。食事は上等で弁護士が2人ついて彼の立場を擁護する。一方日本人の検察官や判事、そして看守にも安の獄中での態度に深い感銘を受ける。なんと彼に揮毫を依頼する日本人は200名にも達したという。安の思想はそのような日本人との接触を通じて次第に、

 

我は果たして大罪人なり。我が罪は他にあらず、我が仁をなす弱きは、韓国人の罪なり

 

という、洗練されたものに到達する。安は彼の看守をしていた千葉十七と特に親しくなり、以下の様な感慨を漏らすのである。

 

私は、ほんとうにやむにやまれぬ心から、伊藤さんの命を奪ってしまいました。韓国の悲惨な現状は、伊藤さん一人の責任とは言えないかもしれませんし、伊藤さん一人を倒しても韓国の危機を脱しえないとは思われませんでしたが、どうしても日本の中心人物を目標とせざるを得なかったのです。

 

自分の行為に対する正邪の判断は、後世歴史の審判に待つとして、私はこの大切な命を天にまかせて、祖国のために捨てようと決心したのです。それが遠い遠い我が祖先から頂戴てきた無窮なる命の流れに、また帰ってゆくのだとと考えたのです。

 

……もうくよくよするのはやめようと、検察官の尋問に答えたのもそのためです。悠久なる韓国の歴史の上に一個の捨石となれば、満足であると私は思っています。

 

いつの日にか、韓国に、日本に、そして東洋に本当の平和が来て欲しいのです。千葉さんわかって下さい。伊藤公にはまったく私怨はなく、公の家族にも深くお詫び申しあげたいのです。

 

千葉は安重根に揮毫を依頼ており、処刑前日、

 

為國獻身軍人本文・庚戌三月 大韓國人 安重根謹拝

 

と揮毫して左手型を押した。左手型は先出のように彼の左手薬指は断指同盟の時切断しているのでよくわかる。千葉はこの絶筆を自宅に持ち帰り、仏壇に供えて死ぬまで供養したことは言うまでもない。昭和54年、ソウルで安重根生誕百周年記念式典が挙行されると、千葉の遺族はこの遺墨を記念館に返還する。

 

その2年後、千葉の菩提寺大林寺(宮城県若柳町)に安と千葉の記念碑が建ち、その表には安の絶筆が刻まれている。

 

著者は安重根の資料を読み込むうちに吉田松陰のことを連想したと書いている。そしてその吉田松陰の松下村塾で学んだ伊藤博文を安重根は射殺するのである。実に神の所業は人智を超えていると思わざるをえない。