第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 二、壬午の軍乱と甲申事変

大院君の再登場と金玉均の乱

さて明治9年(1876年)江華条約で開国した朝鮮政府は日本に若手政治家の金弘集らを派遣して、日本の発展と世界動向を調査し、西欧文明導入を本格化させた。しかし閔妃派は主導権を握っていた朝鮮政府のこのような政策に、儒学者などを中心とする伝統に固執する保守派の反対運動が盛り上がることになる。この運動の代表的人物として崔益鉉がいる。

一方新しい文明を取り入れて一刻も早く近代的国家を創建しなければならないと主張するグループも現れた。金玉均、朴泳孝などの若手の政治家で開化党と呼ばれた。先出の金弘集や閔泳翊らは文明開化を急進的ではなく緩やかにソフトランディングさせようとして、穏健開化派と呼ばれている。

 

以上のように守旧派の排他的ナショナリズム、穏健改革派、急進改革派の思惑が対立する中で、朝鮮政府は日本軍人根本少尉を招いて別技軍を設立する。別技軍の特別待遇とは裏腹に朝鮮国軍の棒給は遅配してなんと13ヶ月も支給されないという事態に陥り暴動に発展してしまう。この暴動は反日ナショナリズムとなって全国に広がることになる。この事態を収集しようと閔妃は策謀を図り、北京の李鴻章密使を送り、鎮圧軍の派遣要請をする。李鴻章は直ちに丁汝昌に命じ北洋艦隊を仁川に派遣し、8月10日に仁川沖に到着する。

 

一方日本留学中の尹致昊や兪吉濬等は改革派若手政治家の金玉均と協議して日本政府に派兵要請書を提出した。日本公使館が襲撃され、行使がソウルから脱出する事態に、日本国内の世論は再び征韓論一色となり、日本政府はやっと重い腰をあげ、軍艦4隻と寺内正毅大隊長率いる1500人を派兵して8月16日仁川に到着する。

 

清国は8月26日に大院君を拉致して北京に軟禁し、さらに袁世凱率いる2000人を派兵して反乱軍を鎮圧、閔妃を擁して南大門から王宮に入る。再び権力の座についた閔妃は大院君派の粛清をする。この粛清はのちのちに大きな怨恨を残すことになる。この朝鮮史始まって以来の大反乱を壬午軍乱―壬午事変ともいう―と呼ぶ。

 

さてここで著者はこの反乱と日韓関係を整理して次のことに留意するように述している。

  1. 日本は江華条約で朝鮮を「自主の国」と認めたが、清国は相変わらず宗主国としての地位を守るべく乗り出して朝鮮を制圧してしまった。そのため江華条約の第1条は無効に等しくなった。
  2. 日本は頼まれて別技軍の指導に当たっていたが、教官の根本少尉は虐殺され、大使館員は逃げ出すという醜態を演じた。巻き返しを図ったが、時既に遅く、清国と戦う用意なく、先をこされてしまった。
  3. 壬午の軍乱は続いて起こる「甲申事変」の遠因となった。また朝鮮をめぐる日・清の争いは、日清間の戦争へと発展していった。

いかなる国の場合でも、内乱を自力で収集できない国は、もはや独立国とは言えない。内乱処理を外国勢力に依存したらどんなことになるか。その悲劇を知らなければならない。

 

日本と朝鮮は内乱後、済物浦(さいもつぽ)条約を締結し、その条約の中に朝鮮側が日本へ謝罪使節を送るというのがあり、その履行のため9月18日明治丸に乗船した朝鮮の謝罪使節が仁川を出向した。実はこの船中で現在の韓国国旗(太極旗)が誕生している。この経緯を李瑄根博士はこのように書いている。

 

イギリスで造船した1100トン級の明治丸は、船長だけはイギリス人ジェームズを雇っていたが、この船長が好奇心を持って珍客朴泳孝修信使一行と話を交わしているうちに、「朝鮮王国の使節が礼訪するのだから、貴国の国旗を貸してくれればマストに掲げる」という話を持ち出した。その時まで国旗を制定・使用していなかった朝鮮王国は、あわてざるを得なかった。幸い一行が出発する前に政府要路の間で、国旗問題が議論され、修信使は「必要なときには適当に作って使用せよ」という国王の内諾を得ていたから。朴泳孝以下の使節団幹部は、明治丸の船上で、あらかじめ構想していた太極八卦図を出し、アストン領事の意見を求めた。旗に関してアストンよりも詳しいジェームズは、「太極の図案はよいが、周りの八卦は複雑だから、四卦だけを四隅に配する方が良いだろう」といい出して、一同これに同意して決定となり、ジェームズの好意で最初の国旗標本として大、中、小三本を描いてもらった。一行が神戸に着いてから、8月12日、宿所西村屋の屋上に韓国旗初めて掲揚された。その日から神戸に駐在する各国の外交官は、この珍奇な国旗を写して行った。その時の少壮開化人士の感激は大きかったようだ。

 

朴泳孝は満10日間、神戸に滞在した後、東京に向かう前日の22日、本国機務処にその間の経緯を報告すると同時に、小国旗標本も同封して船便で送った。報告の内容は、明治丸船上の経緯、国旗の使用法、必要性を説いたものだった。修信使一行は東京に着いて以後、10月3日の坤殿(王妃)誕生日を慶祝するための宴会場に、よその国の国旗とともにわが国の国旗を掲げて、式場を飾った。政府は翌癸未(1883年)1月27日、正式に国旗の制定を宣布した。その後84年を経た今日まで、どのような民族の受難期に際しても、太極旗を国家のシンボルとして守護してきた。(以上の日付は旧暦。『民族の閃光』より)

 

金玉均は明治17年(1884年)に帰国後、清国がベトナムでフランス軍と紛争(清仏戦争)を起こす機を狙って、11月4日にクーデターを起こすのである。そして国王の稟議を経て、内閣を組閣して以下のような骨子の革新的政策を発表する。

  • 国王は今後殿下ではなく皇帝陛下として独立国の君主として振舞うこと。
  • 清国に対しての朝貢の礼を廃すること。
  • 内閣を廃し、税制を改め、宦官を廃すること。
  • 宮内省を新設して、王宮内の行事に透明性を持たせること。

など14項目が挙げられた。しかしこのクーデターは3日天下に終わることになる。閔妃は袁世凱率いる清国軍に密使を送り、袁世凱は1500名の兵力で金玉均に加勢した日本軍は僅か150名、如何ともし難く、公使以下日本側は公使館と兵営を焼き払い仁川から逃げ帰ることになる。日本へ亡命した者は金玉均、朴泳孝、徐載弼など9名。しかし徐載弼は井上外務卿に「日本は我々を裏切った。これでも武士道の国か」と痛罵して朴泳孝とアメリカに亡命する。 

 

朝鮮では逆賊は三族まで滅ぼすという掟があり、遺族は例外なく虐殺され開化党は抹殺されることになる。亡命した金玉均らも生涯、閔妃が派遣した刺客に狙われ、1894年洪鐘宇に暗殺される。金玉均の遺体は朝鮮に送られこれを寸断して、首と四肢は晒しものとされる。甲斐軍治は夜陰に乗じ、遺髪を持ち出して本郷駒込真浄寺に埋められた。―青山の外人墓地にも墓がある―

 

この騒乱を甲申事変といい、別名を金玉均の乱ともいう。著者はこの事変の敗因を分析して、

  1. 壬午軍乱が終わって、ほぼ2年後に起こった甲申事変だが、壬午軍乱の時の失敗の経験が生かされていなかった。甲申事変の場合も軍乱の時と同じように閔妃が密使を使って清国軍を導入し、新政権を圧殺してしまった。 
  2. 韓国の学者の中には「日本軍の背信が致命傷」という人があるが、蜂起側が日本の支援を過大に期待し過ぎたともいえる。 
  3. 開化党は、愛国の志士としての気概には燃えていたが、計画が拙速・粗略であり、内部に密告者もいて計画が相手方に漏れていた。 
  4. 開化党の若いメンバーだけでクーデターを断行したため、同じような革新を願っていた金弘集ら大物政治家が参加しなかった。

国際紛争は理非曲直より、力の強弱で決定するのが常である。日本では甲申事変の顛末が伝えられると、清国膺懲の気運が高まり、西郷従道は対清宣戦布告を主張するのである。この事後処理に井上馨は軍艦3隻で仁川に乗り込み、漢城条約を締結する。

 

一方清国とは天津条約を結ぶことになるが、この時の第3条、将来朝鮮に重大な変乱が発生した場合、日清両国もしくは一国が出兵する時は、お互いにその旨を通告し、ことが収まれば直ちに撤兵すること。というこの条項が、9年後の日清戦争のきっかけとなるのである。