第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 八、高宗皇帝の退位と義兵闘争

終戦時の昭和天皇と対比して

列強がアジアを本格的に侵食し始めた19世紀後半の日本と韓国の対応は対照的だ。明治維新を断行していち早く近代化し、武備を整え独立を維持しながら対抗した日本と、相変わらず旧態依然と事大主義に陥り、独立を朝野で熱望する日本をよそに、反日侮日世論を国内で煽り立てて独立の気概を忘れ、清国やロシアに阿る李氏朝鮮政府というコントラストが、近代アジアに与えた遺恨は今も続く。その朝鮮側に於いて中心にいたのが、第26代国王(のち皇帝)高宗である。

李氏朝鮮は日本の徳川幕府に先んじること約200年の1394年、太祖李成桂が高麗を征服、漢陽(ソウル)を首都にした時から始まる。25代哲宗に子がなく縁戚であった李載晃が高宗となり、26代国王に12歳で即位する。あまりに幼い国王であったため実父の李是応(大院君)が執政となる。執政は10年間続き、さらにその後は怜悧な才媛皇后閔妃に、1895年(明治28年)暗殺されるまで、国政は牛耳られてしまう。

 

閔妃が暗殺されると、身の危険を感じた高宗はロシア公館に逃げこんでしまう(俄館播遷)。異常事態も1年で終焉して国王は宮廷に復帰して、今度は大韓帝国皇帝として親政を始める。ときに33歳。しかし皇帝独裁の専制政治体制が災いし、指導力乏しく側近に振り回され、韓国の政治は混乱していいく。

 

高宗には優柔不断とも無邪気ともとれる逸話が豊富にある。しかしその優柔不断さにより、無実の罪で処刑されたり,処分された政府重臣は数限り無い。側近に甘く国を想い諌言をするものを疎んじる君主であった。

 

例えば、高宗は日本が英米人に干渉でいないことを利用して、ハルバート(米)やベッセル(英)に反日新聞を発行させたり、セオドア・ルーズベルト米国大統領に密書を送り、米国に日本への干渉を依頼する。大統領が「韓国のために日本と戦えない」とにべもなく断り、その御璽入りの密書が公開されると、いつものように偽造と言って、事実を否認し重臣を処断する。

 

高宗は伊藤博文総監に頭が上がらず、どうにかして排除したく、僧侶を呼んで伊藤調伏(呪いによってもろい殺すこと)を祈祷させ、死期を占ったりさせていた。また金升皎という儒学者を特別顧問にして出入させていたが、明治37年7月、金が憲兵隊に逮捕された時、「聖上日可斬島夷伊藤博文、長谷川好道」の密勅が見つかった。島国の夷である伊藤総監と長谷川軍司令官を斬れ、という皇帝の秘密命令だ。それを知った伊藤は少しも騒がず、皇帝に対して次のように諌言したのである。

 

「念仏、祈祷、うらないなどは暗愚の君主がすることだ。山村の隠れ儒者である金升皎などは、四書五経を読んで周代の治教を知っているだけではないか。世界の大勢も知らず、時勢に対応する能力もない。こんなことをするなら、孔子の昔を求めて国政を議したほうがよかろう」

 

しかしその伊藤総監にも青天の霹靂といえる事件がハーグ密使事件だ。明治40年6月ハーグで行われた万国平和会議に皇帝が密使を派遣していたのである。韓国の外交権は閔泳煥ら高官が締結反対を訴えて自決する事態になった、日韓保護条約の締結で日本にあった。各国も日本にその権利を認めているので、密使に会議での発言を認めるわけにも行かないので、新聞記者協会でも演説に留めた。

 

しかしその件が日本に伝わると日本の世論は激昂して、伊藤の軟弱寛容姿勢を避難し、韓国併合すべしと燃え上がる。伊藤も看過できずとして「日本には韓国に宣戦布告する理由がある」という抗議文を韓国政府に提出した。日本の抗議を受けた韓国政府は御前会議を開催した。この席で農工商部大臣宋秉畯は以下のように発言して皇帝に詰め寄った。

 

「伊藤総監は決して韓国を奪おうとしているのではない。伊藤公は日本の国政に参加して40年。未開の日本をして強国の列に加えた。彼の欲心といえば、貧者な我国を扶けて日本のようにしたい名誉心があるだけである」

 

「それに対して陛下は日本との善隣を破るために、1億からの金を費やされた(ハーグへの密使派遣を指す。)この巨額に資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった」

 

「……これまで陛下が日本の信義に背かれたこと13回、事実が暴露すれば必ず知らずと言い、、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るごときであった。今や新聞事件を(英国人トマス・ベッセルが発行する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する親翰がが掲載)を合わせて15回目の背義に及ぶ」

 

「ただ伊藤総監が寛容の心をもって陛下の悔悟を待つ態度をとっているに過ぎない。今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし総監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるかどうか」

 

高宗皇帝は宋に、

 

「それではどうせよと言うのか」、

 

宋は、

 

「およそ二つの方法がある。ひとつは日本に行幸して親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝罪するか。さもなくば日本と開戦するしかない」

 

皇帝はこの言葉に激怒する。皇帝は伊藤総監に会い、「ハーグへの密使は自分は知らない」と言い、「内閣が退位を要求しているがそれは不当だと忠告して欲しい」と懇願する。伊藤は「陛下がいかに弁明されても証拠は臣(伊藤)の手中にある、欧米もこの事件を知っており、どうすることもできない。退位は韓国自身の問題であり、関与できぬ」と答えるのみであった。

 

宋は閣僚に対して、

 

「今度の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍ではないか。退位して謝罪してもらうよりない。陛下と国家とどちらが重要か」と言い、李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うしかない」

 

と王室を守るにはこの道しかないと皇帝に上奏するが、高宗は頑として、

 

「譲位するなら死んだ方がましだ」

 

と拒否するのである。

 

宋は意を決して御前会議で声を張り上げ、

 

「それではお願いだが、死んで頂きたい。陛下が死ねば国と王室は生きるであろう。もし陛下がが死ななければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国には何の益にもならない。しかし陛下が死ねば、国家社会は救われる。どうぞ死んでいただきたい」

 

高宗は第二子坧純宗に譲位することになる。宋秉畯は二君に仕えずや君君たらずとも、臣は臣なりという朱子学的精神ではなく、民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君軽しとなすという孟子の民本主義的精神からの行動ではないかと著者は解説している。

 

明治40年7月20日、純宗への譲位式が行われたが、全国各地で暴動が起こる。伊藤は24日に「日韓新協約」を締結した。この協約締結を現在では、日本の内政干渉と責め立てるが、自浄能力を失い腐敗した特権階級を排除して、効率的で公平的な行政組織を推進するには、やむ得ない処置だったのではないかと筆者は解説している。

 

協約には韓国軍解散の規定があり、純宗皇帝の韓国軍解散の勅書が読み上げられると、朴昇煥少佐はピストル自殺を遂げる。その事件が全国に伝わると各地で義兵運動が起こるのである。この韓国軍解散は両班制度で腐敗しきった軍隊を、徴兵制の近代的軍隊にするための処置だったのであるが、韓国側から見れば噴飯物であったといえよう。

 

義兵運動は日本人警察官や一進会会員が狙われ、一進会会員は断髪していたため狙われやすく、1年間に966人が虐殺されたと言われている。義兵の中には盗賊まがいの行動をする集団も出てきて、自警団が組織されるようになった。義兵運動は4年間続き、武装義兵約14万と、日本軍との衝突2800回と言われている。

 

ここまで高宗皇帝の治世による韓国を概観して感じることは、同時期に14歳で践祚した明治天皇とのあまりに対照的なその人生である。高宗皇帝は退位するまでのほとんどを大院君と閔妃という、身内に実権を握られ、リーダーシップを発揮できなかった。閔妃が暗殺されると、ロシアに保護を求め、最後は日本の影響下で執務するという専制君主であった。

 

清国との朝貢関係を日本の軍事力で絶ち切って、独立して以後は宮廷勢力の甘言に踊らされ、宋秉畯の言を借りれば、

 

「日本の信義に背かれたこと13回、事実が暴露すれば必ず知らずと言い、、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るごときであった。」で「今度の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍ではないか。」

 

退位して謝罪してもらうよりない。陛下と国家とどちらが重要か」と退位することになる。同時期明治帝は大久保、西郷、伊藤、山縣、山本、大山といった元勲たちの輔弼と輔翼宜しきを得て、日本を世界列強へと導いた。君主たる者君臨すれど統治ぜずの英国王室の伝統を墨守して、臣下の言を真摯に聞いて政を導いた。著者は最後に高宗皇帝と昭和天皇を対比して以下の3点を顛末の悲劇にまなぶものとして指摘している。

 

高宗皇帝は前半は大院君と閔妃の抗争に巻き込まれ、後半は宮廷勢力に振り回される。条約の重重要性を知らず、綸言汗の如しの意味がわからす、自身の立場が不利になれば前言を翻し、責任を臣下に転嫁する。一方昭和天皇は常に条約の尊重を歴代首相に訴えられ、各国要人から「陛下は私心がなく、表裏がなく、世界でも稀有な正直な方」と言われていた。もし昭和陛下が立憲君主ではなく、韓国のような専制君主であったなら、支那事変から大東亜戦争に至る経緯を日本は歩まなかったのではないか。 

 

高宗皇帝は、最後閣僚から面罵される始末で、遂に退位する。しかし昭和陛下は一時退位も考えられたが戦後も一貫してその地位にあり、国民の尊敬を集めた。 韓国では新皇帝・純宗の命令で軍隊の解散が行われると、全国に義兵運動という反乱が起こった。しかし日本は終戦の詔勅が出されると1億国民は矛を収めた。陛下の玉音放送で秩序ある敗戦を受け入れた。宣戦も和平も、天皇と共にある日本の姿に世界は驚いたのである。

 

高宗皇帝のような君主であったことが、弱肉強食の19世紀後半の世界情勢下で、列強との接触をしなければならなかったことが韓国の悲劇であり、明治天皇麾下国民が一致団結して、西洋列強の圧力を排除した、当時の日本国民の偉大さを再認識することができる。

 

つくづく日本に生まれてよかったとあらためて思うのである。