第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 六、日露戦争と日韓保護条約

一進会の積極協力と閔泳煥の自決

日清戦争(明治28年1895年)に勝利した日本だが、露・仏・独の三国干渉で遼東半島を返還することになる。さらに明治31年(1898年)ロシアは旅順・大連をドイツは膠州湾を、翌年フランスは広州湾を租借する。一方アメリカは1897年にハワイを併合、1899年にはフィリピンを占領する。日本は、これら列強の行為になす術もないのである。

教科書的記述をすれば国民は臥薪嘗胆を誓い、国力の充実に努めることになる。こうした状況下で1900年、北清事変(義和団の乱)が起こる。清国は内乱を自国で処理できず、日本を含む9カ国が出兵して鎮圧する。

 

明治33年には義和団が満州各地で蜂起したため、ロシアは17万5千の兵力を投入して満州を制圧する。この後ロシアは各国の撤兵要求を尻目に居座ってしまう。日本はこの状況を外交交渉で打開を図るが、国力に於いて優位にあるロシアとの交渉は暗礁に乗り上げることになる。

 

仕方なく日本は明治36年末から開戦準備に入るのである。当時の韓国の反日侮日親露傾向は凄まじく、一進会李容九はこのように述べている。

 

明治37年2月、日露戦争発生当時、愛国の勢威強大なるに反し、日本の実力は過小に評価せられ、反日・侮日の風は朝野に汎延するに反し、親露恐露の分子は李王朝を始め民間に充満せり。

 

韓国の動向は日本にとって死活問題であった。韓国を経由しなければ、満州に派兵も軍需物資の輸送もできないのであるが、韓国は開戦の2週間前の1月23日清国芝罘からやっと各国に局外中立宣言を打電するのである。開戦の詔勅には、

 

日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。

 

ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。

 

従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。

 

ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。

 

と記されている通り、当時の韓国の独立や安全保障問題は日本のまさに死活的問題であった。日本国内では、ロシアとの戦争に勝てるのかという疑問の声が半数以上あったが、開戦と同時にロシア討つべしの声が盛り上がることになる。石川啄木などはロシア軍を悪魔の軍隊と呼び、詩をつくる。

 

我は何故かく激したるか、知らず。ただ血は沸るなり。目は燃ゆるなり。快哉。

 

日韓は日韓議定書の調印をめぐって激しい外交交渉があったが、2月23日これを調印して、日本は本格的に韓国国内に進撃する。しかし韓国国内の反日感情は依然激しかった。そのような状況下一進会は別だった。一進会は一心進歩主義を標榜する東学党系の李容九や宋秉畯らが1904年に結成した秘密結社である。

 

李容九は日露戦争を単なる戦争とは捉えず、

 

「ロシアに代表される西欧が、アジアを侵略する最後の決戦と判断しました。日韓の軍事同盟によってロシアの東漸を防ぎ、アジアの復興の中の韓国の生きる道を見出したのです。韓国内の一般や諸団体からは、日本の手先、売国奴などと悪罵を浴びせかけられながらも、涙ぐましいばかりに日本軍に協力しました」 

 

一進会は治安維持ばかりでなく宋秉畯が日本軍の通訳と努めたり、鉄道工事、道路工事の請負などでは日本から支給される賃金の赤字分を補填したりと反日感情の渦巻く中、終始協力を惜しまなかった。日本人はそのことを決して忘れはならないと、著者は警告するのである。

 

戦役は1年半にわたり、日本は辛勝する。ロシアは南満州から撤退したものの、韓国には親露傾向が満ち溢れていた。日本世論は日露戦争の目的である韓国へのロシアの影響力の排除を徹底するため、韓国併合を強く期待していた。

 

アメリカとは桂・タフト協定を締結して宗主権(スゼランティ)を認めさせ、イギリスも日本の韓国支配を是認していた。当然ロシアとも「露西亜帝国政府は日本帝国が韓国において政治上軍事上経済上の卓越なる利益を有することを承認」と講和条約(ポーツマス条約2条)で認めさせていたのである。

 

小村寿太郎外相は第二次日韓協約(乙巳条約)を締結することを決意する。第三条には、

 

日本國政府ハ其代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レヂデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並ニ本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理スヘシ

 

と韓国の外交権を日本が掌握し、その代表者として統監を置くという韓国にとっては極めて厳しいものだ。条約を締結するため元勲伊藤博文が全権に任命される。伊藤は明治天皇の親書を携え、明治38年11月4日韓国へ向かう。

 

貴国は不幸にして国防未だ備はらず、自衛の基礎未だ固からず、為に往々にして東亜全局の平和を確保するに足らざりしは、朕の遺憾とする所なり。故に去歳両国に協約を訂し、以て貴国防衛の責務を帝国を担任するに至れり。今や幸に平和は克復せられたりと雖も、これを恒久に維持し、将来の玆端を壮絶せんが為には、両国の結合を一層鞏固ならしむること極めて緊要なりなりとす。

 

当時の韓国は皇帝の任命する内閣はあるが、議会のない皇帝の専制体制であった。伊藤全権は皇帝に対し誠意を持って陳奏し、閣僚に対しても粘り強く説得を行ない、閣僚2名の反対はあったが、これを纏めた。

 

現在の韓国は、伊藤博文のことを韓国侵略の元凶と書いているが、伊藤は韓国併合に反対であり、日本国内からは韓国本位に考えすぎると不評を買っている。伊藤は訓示で日本人に対して、

 

苟も数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものでもなく、また支配できるのもでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成ぜず、また我が陛下の御思召も決してそうでない。

 

一方韓国李完用内閣には、

 

凡そ国家は自ら独立する要素なくして単に他国のみにより立ち得るものに非ず。今日のごとくして進むか、夫れ韓国を滅するものは他国に非ずして韓国自身ならむ乎。故に専心一意韓国の為に謀らざるべからず。自分は諸君を助け、韓国をして自立せしめ得る様尽力しつつあり、しかるに韓人は日露戦争の如き大激戦を目撃するも尚覚醒せざるは何事ぞや。

日本は朝鮮の独立を望み、彼の条約を締結せり。故に韓国を強いて独立国となりと言わしめたのは日本なり。― 中略 ― それ韓国を滅するのは他国にあらず、内外の形成を察知せず、無謀軽挙を事とする韓人なり。

 

伊藤は韓国を独立国と認めたのは日本であり、それが日本の希望であるといい、日露戦争を目撃しながら覚醒しないとは何事か!と叱責している。筆者は日韓保護条約締結の騒動と、日本のポツダム宣言受諾をめぐっての混乱とを対比してこう書いている。

 

日本ではポツダム宣言受諾に反対して、その受諾を国民に伝える昭和天皇の玉音を録音した録音盤を奪取しようとする事件が起こりましたが、韓国でもソウル市内は騒然となりました。 受諾に賛成した五大臣は「五賊」と呼ばれいえを焼かれ、刺客に狙われるようになりました。民間団体で賛成した一進会の李容九や宋秉畯を加えて「七賊」と呼ばれ、今も売国奴の汚名を冠されています。

 

高宗に信頼が篤い侍従武官長であった閔泳煥は同志と共に条約締結反対の気勢を上げた。しかし日本憲兵隊に阻止されると、

 

嗚呼国恥と民辱は此処に窮まれり。我等国民は生存競争の中死滅せんとす。おおよそ生を期する者は死し、死を期するもの生く。泳煥は一死を以て皇恩に報ひ、二千万同胞に謝せんとす。泳煥は死すとも死せず。九泉の下にて諸君を助けんとす。我が同胞兄弟よ、奮励倍加し、志操を固くし、学問に力を致し、協力して我らの自由と独立を回復せよ、然らば死せる者も地下にて喜ばむ。嗚呼悲しいかな、されど失望するなかれ。

 

という遺書を書き、所持していた刀で喉を切って自決するのである。享年45歳。閔泳煥が自決した仏間を家人が250日たって見ると若竹が生えていたという。この若竹は血竹として高麗大学の博物館に所蔵されている。著者はそこを訪ねて、博物館所属の民族文化研究所の江所長とあった。そこで著者はこう所長とあいさつしたのである。日韓の関係を解決する、指針一端が垣間見られる。

 

私は学生と共に韓国の愛国者の遺跡を訪ね、愛国者を讃えるために訪韓しました。韓国の愛国者の生き方は、日本人に極めて似たところがあります。韓国の演歌も日本の演歌も区別つかないように、心情的に共通性があるように思います。学生もこの博物館で、閔泳煥の最後を知って、深く感動しました。

 

昨日は安重根の記念館を訪ね、黙祷を捧げました。安重根が獄中で書いた最後の文章を読んでいると、吉田松陰の『留魂録』を思い出さずにはおれません。安志士が刑死した当時、その遺文が日本で紹介されましたが、多くの日本人が共感しました。これから真の日韓友好を考えるなら、相互に戦死者を讃えあうように、愛国者を讃えあう広い心から入るべきではありませんか。