第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 四、閔妃暗殺と高宗の「俄館播遷」

感動を呼ぶ李周會将軍・金弘集首相・禹範善親子の物語

乙未事変はいわゆる閔妃暗殺事件のことであるが、この顛末も一局を持って語れるほど単純ではない。この事件についての韓国側の教育の一端を、著書では著者が大学生を同伴して韓国を訪問した時のガイドの話として紹介している。

 「日本は皇后陛下を二人殺しました。一人は1895年(明治28年)に景福宮の中に入り込んで、明成皇后をこの絵のように殺害しました。もう一人は1973年(昭和48年)8月15日、光復節の時、朴正煕大統領夫人をピストルで射殺したのです」。

 

私が引率した学生たちは、朴正煕大統領夫人を射殺したのは文世光という在日韓国人で、北朝鮮の指令でことを知っているので大して気にもとめません。

 

しかし、明治の時代に当時の国母陛下である閔妃を、宮殿の中に侵入して暗殺したことには、すっかり囚われてしまいます。生々しい現場を油絵で見ているし、天安市の「民族独立記念館」に行けば、殺害現場が等身大の蝋人形で再現されています。ここでも日本刀を振りかざした日本人が襲いかかり、血が飛び散っています。これは迫力があり、この情景を目にしたものには惨劇が焼きついてしまします。

 

しかしここまでの見てきた列強圧迫下・苦悩のドラマの各項目を思い起こせば、大院君と高宗・閔妃との対立、さらに開化党と事大党(閔妃派)の対立や、甲申事変、東学党の乱などの民族自立運動に際しての清国軍導入によって、改革派からも狙われていたことがわかるであろう。

韓国での閔妃の評価としては肯定派が、

  • 露、清、日等の強国を手玉にとった韓国の西太后といえる。 
  • 帝政ロシアと結び、日本を韓国から追いだそうとした女傑だった。 
  • 舅の大院君を相手に彼女は遂に抑え込んだ。その執念の凄さは、"女帝"の名にふさわしい。李朝末期を色どった華やかな出現であった。

一方否定的な意見としては、

  • 当時高宗という国王がいたのに、それを無視して大院君と閔妃が、宮廷内で愚かな権力闘争に血道をあげた。高宗に明治天皇くらいのリーダーシップがあったらと思えてならない。李氏朝鮮は滅びるべきして滅びたのだ。

閔妃が宮廷内で権力を掌握したのは1882年の壬午軍乱のころだと言われている。実権を握った閔妃は、まず、閔一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるために彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元しました。(金煕明『興宣大院君と閔妃』)、と驚くべき粛清と側近腐敗政治がおこならわれたのである。

 

閔妃は聡明多才、権謀術数に長じ、陰険で残忍、妖婦としての逸話も多い。金玉均などは「閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しない」と周囲になんども漏らしている。

 

その金玉均が起こした甲申事変が閔妃の清国軍導入で三度、失敗するにいたり朝鮮の独立派には「閔妃撃つべし」の声が湧き上がるのは当然であろう。また朝鮮の自主独立を願う日本人にもそういう声が上がったのもまた必然ではないだろうか。

 

その12年後の明治27年(1894年)日清戦争が勃発するが、この戦争は宣戦の詔書(明治27年8月1日渙発)に、

 

「朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以て東洋全局の平和を維持せむと欲し」

 

とあるように朝鮮の確固たる独立と、アジア安定のための義戦といえないだろうか。

 

「眠れる獅子」清国に日本が勝利することなど皆無であろう、という評価の中、日本は連戦連勝するのである。そんな状況の中で、高宗は翌明治28年(1895年)1月7日歴代国王、皇后が眠る宗廟に於いて洪範14条を宣布する。

 

その第1条は清国に附依する慮念を割断し、自主独立する基礎を確建するであり、第3条は大君主が正殿に御し、視事し、国政を親しく各大臣に諮問裁決し、后婿宗戚が干与することを許さない。と閔妃たちその一族の干渉を排除することを謳っている。さらに2月27日には日本の「教育勅語」に倣って「教育勅語」を公布したのである。

 

戦争は日本が勝利して、4月17日下関条約が調印される。しかし4月29日には露、仏、独のいわゆる三国干渉によって日本は屈従する。閔妃は西洋列強に屈服する日本の姿を見ると、掌を返したようにロシアへ迎合してゆくのである。洪範14条は反古にされ、閣僚を親露、親米、閔派で固めていき、再び自主独立とは反対方向に時計の針が回りだすのである。

 

ついにロシア公使ウェベールは閔妃を使って日本軍が育成した規律厳正な訓練隊を解散させようとしているという情報が三浦公使に入る。また、かねてから閔妃ら閔族の横暴に国中が怨嗟の声に満ちていることに憂慮していた李周會将軍や訓練隊の李斗璜、禹範善等は危機感をいだいていた。

 

反閔妃派にどのような危害が及ぶか予断を許さない状況になったのである。しかし朝鮮人だけではとても実行できないと判断した日本側から民間有志が続々と加わることになる。

 

三浦公使は決行日を10月10日と決めていたが、訓練隊の武装解除を7日に通告してきたので、翌8日未明にことを実行にうつす事になる。怒号飛び交う混乱の中、閔妃享年45歳と女官2名の女性3名を暗殺する。その経緯は諸説あり事実をはかることは困難である。

 

閔妃暗殺後大院君は首相の金弘集に命じて閔派閣僚を罷免する。金首相は直ちに閔妃の国葬を言上したが、大院君は「王妃は廃して庶人にする」として、国葬を行わないと言明した。閔妃が復位して「明成皇后」の諡号を贈って国葬を行ったのは大韓帝国誕生後の明治30年であった。

 

日本国政府が三浦公使以下40数名を裁判にかけると、李周會将軍は悩むことになる。彼はかつて国王に、

 

閔妃と奸臣を宮廷から遠ざけ、国王親政を実現するよりほか、国家滅亡を救う道はない。それができなければ、自分の首を斬ってもらいたい。

 

と諫言したことがあり、国王はそれを聞き入れないどころか李周會を宮廷から追放するのである。彼はその後下野して日朝の志士と画策していたのである。彼は、

 

日本が我が国のために尽くしてくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない。

 

と閔妃暗殺の全責任を供述して、尹錫禹、朴鉄とともに明治28年10月19日処刑される。享年53歳。広島の獄中で処刑を知った三浦公使は痛哭して七言絶句を読んだ。

 

廃沢荒山玉尚存 艱難国歩哀王孫 無由一束供青草 涙向西天灑義魂

荒廃した朝鮮にも玉のような心があった。朝鮮国の前途を思えば気の毒に堪えない。

自分は獄中にいるため献花もできず、西の空に向かって李周會の義魂に涙を注ぐのみである。

 

李周會の遺骸は逆ととして破棄され遺族も国法で死刑に処せられる。頭山満や内田良平は昭和4年に遺骨を龍山の瑞龍寺に移し、3人を検証する碑を建立するのである。

閔妃
閔妃

この後ロシアは国王と側室に「日本が王位を剥奪する」と吹き込み、1年間ロシア公館で執務するという韓国の歴史上前代未聞であり、屈辱的なことでこれを「俄館播遷」と呼ぶ。高宗国王はロシア公館から金弘集首相ら5大臣に大逆の烙印を押し、逮捕、処刑を命じるのである。

 

清廉有能な金弘集は日本軍の保護の申し出に、「自分はいやしくも朝鮮国の総理大臣である。朝鮮人のため殺されるのも、また天命である。他国人に救われるのは自分の面目ではない」と拒否して民衆に殺害されたのである。享年54歳。遺体はズタズタにされ市中を引き回され、梟首にされた。このように乙未事変、いわゆる閔妃暗殺事件は逆にロシアの影響力を増大させる結果となり。日露の遺恨がこの後の日露戦争勃発の遠因ともなる。

 

禹範善は金弘集内閣が明治27年に誕生すると第2訓練隊の大隊長に任命され、李周會や李斗璜ら韓国の志士と日本の志士達と奔走して、閔妃暗殺事件に関わる。事件後日本に亡命して、日本女性の坂井ナカと結婚する。

 

その彼に閔永翊の家僕であった、高永根と従者の魯允明が暗殺をもくろんで近づく。計画は実行に移され、高は禹範善の喉を短刀で指し、魯は金槌で頭部をメッタ打ちにする。二人は日本で裁判にかけられ、高は無期、魯は12年の刑で北海道の獄に送られる。

 

高と魯は日本では単なる殺人者だが、朝鮮政府にとっては逆賊禹範善を殺害した功労者なので、身柄の返還要求があり、明治42年に帰国する。閔妃の墓守をして生涯を閉じたという。

 

禹範善には2人の子どもがおり、長男が長春、次男が洸春という。洸春は東京帝国大学法学部を卒業して日本企業で役員を努め今は引退している。

 

兄の長春は東京帝国大学農学部を卒業してその後学位を取得する。戦後韓国政府から帰国を要請されるが、逆賊禹範善の子供としての風当たりもまだ強く逡巡していた。しかし昭和25年彼は言葉も不自由な韓国に帰国する。

 

禹長春博士の名前は韓国人であれば誰でも知っていて、「こんなにおいしいキムチが食べられるようになったのは禹博士のおかげ」と教科書に載っているほどである。禹範善、長春親子の物語は知っておきたい日韓の交流物語なのである。

 

唯一言えることは、大院君も閔妃も私情を捨てて愛する実子のため(大院君)、そして愛する夫のために(閔妃)、国王を国王としてなぜ遇さなかったか。それと共に高宗は国王としてなぜリーダーシップを発揮できなかったのか。独立国として振る舞えなかった朝鮮の異常な混迷はここに胚胎していたのではないでしょうか。私は改めて日本の明治維新が、天皇中心にうまく展開したことの意義を思うのです。

 

現在朝鮮半島は南北に分断されています。双方とも南北統一を口にしながら、統一の方策は百八十度違います。そればかりではありません。統一する場合、共通の精神的原点をどこに求めるべきか。お互いイデオロギーをどれだけ超越できるのか。大院君と閔妃のような怨念の権力闘争に終始するのではないか。人事ならず心配です。

 

それは我が国にも言えることです。独立国家としての成熟した意識が育っているとは決して言えません。閔妃事件という悲劇の中から日韓ともに多くの教訓を汲み取りたいのです。

 

最後に著者がこう提言をしているが、混迷を極める極東情勢と共に、イデオロギー対立が続く我が国への提言でもある。独立国として拉致問題を議論できず、同様に普天間基地を議論できない我が国の政治家、国民は世界の笑いものであり、将来の日本人からも嘲笑されるであろう。