第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 二、聖戦完遂に熱狂した朝鮮の人々

日韓にはこういう時代があった 日本軍に志願した朝鮮の青年たち

これまでいろいろな時代、人物、角度から日本の朝鮮統治を顧みてきたが、おわかりのとおり困難の連続であった。その憤懣のエネルギーは1919年の3・1運動で爆発することになった。

その後も安昌浩など愛国者の独立運動は続くことになるのだが、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件に端を発した支那事変で、日本軍が連戦連勝をすると、朝鮮民族の対日感情はにわかに好転し始める。2千年前の漢時代から朝鮮を圧迫・支配してきた中国軍を打ち破る日本軍に朝鮮人は驚き、熱烈な愛国感情(日本への協力という意味で)へと変化したのである。

 

その変化は特に出征軍人の歓送迎に顕著になる。7月12日から入営出征を始めるのだが、始めは日本人と知人と朝鮮人程度だったものが、北支へ出動する日本軍部隊が続々と朝鮮半島を縦断して北上し始めると、見知らぬ人々も町内、村内、一地方あげて駅や沿道で送迎するようになった。

 

もともと個人的には親切な人が多い朝鮮民族であるから、駅や沿道での湯茶接待や慰問品受け渡しばかりか、出征兵士との涙と笑いの交歓が続いた。記録によると昭和12年9月の京城駅にはなんと43万人、1日平均1万4千3百人が詰めかけて、日本の兵士たちがいたく感激をしたという。

 

朝鮮教化団体連合会編「支那事変に現れたる朝鮮同胞の赤誠」というパンフレットには朝鮮人の愛国ぶりが紹介されている。例えば朝鮮神宮への参拝が急増していること、9月3日には同神宮でキリスト教徒の尹致昊を代表とする各界の代表百数十人が発起人となって、「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されたこと、血書を書いて従軍を志願したものが何百という数に上り、その中には希望達せられず、自殺した青年まで現れて総督府も困惑するほどの熱気のだったようである。 

 

それまで総督府が手を焼いていた朝鮮の民族主義者や団体までもが、積極的に愛国運動を始めたのには、日本側も相当困惑したらしい。いずれにしても熱気渦巻く中、昭和13年(1938年)4月、陸軍特別志願兵制を設置するや、独立運動家の崔麟らは「これによって半島の民衆も全的に日本国民となるのだから、一層覚悟を新たにしなければならない」と声明を発表するなど、3・1運動の指導者などが率先して協力を呼びかけたのである。

年度  応募者 採用数 倍率
昭和13年 2,946人 406人 0.73倍
昭和14年 12,348人 613人 20.2倍
昭和15年 84,443人 3,060人 27倍
昭和16年 144,743人 3,208人 45.1倍
昭和17年 254,273人 4,077人 62.4倍
昭和18年 303,394人  6,000人 50.6倍

すると、驚くことに昭和16年には45倍もの志願者が押し寄せたのである。儒教国家である朝鮮は親族の許可無くして志願などできないお国柄、背景には圧倒的な朝鮮人の支持があったと見るのが妥当である。東洋の平和を確立するという日本の国家目標が、朝鮮の独立と同一線上にあることが理解されるようになったと言えないだろうか。

 

同時に士官学校出身の朝鮮人士官の活躍も大いに青年の心を揺さぶったのでしょう。また現実的には志願して戻れば巡査や面事務所の役人へなれるということもあったのである。

 

昭和17年5月17日には「朝鮮徴兵制実施宣誓式」が朝鮮神宮前で行われ、

 

有難き聖慮は誠に感激に耐えず、我々は益々内鮮一体、尽忠報国の実を挙げ、聖戦貫徹に邁進し、誓って皇恩に報いんことを期す

 

という宣言文が読まれた。

 

大東亜戦争開戦2日後の12月10日、3・1事件の当事者であった崔麟が理事を務める国民総力朝鮮連盟主催の大講演会で、申興雨は、

 

祖父の代から受け継いできた黄色人種の積墳を今こそ晴らさなければならない。一度決戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家を粉砕し、……新東亜建設に邁進しなければならない

 

と演説し、張徳秀も、

 

米英の圧迫と屈辱から東亜民族の解放を冴え部と決戦を開始したのである。いまや東亜民族は圧迫と摂取を受けて骨しか残ってないが、今その骨で断固として決起し、仇敵米英を打倒しなければならない

 

とこの大東亜戦争がアジア解放の戦いであると、強調したのである。12月14日には朝鮮臨戦報告団が米英打倒第講演会を開催して、2.8独立宣言書を起草した朝鮮文芸界の第一人者李光洙が、

 

私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖業に邁進するものであるからにして、子々孫々の栄華を得るであろう

 

と日本人顔負けの演説をし、農民運動指導者李晟煥も、

 

貪欲の牙城、白人帝国主義の張本人米英を今こそ撃滅せずしては、我等の子孫の発展を望むことはできない

 

と米英植民地支配の打倒を訴えたのである。

 

戦後韓国の国会議員に選ばれた詩人の朱耀翰もルーズベルトよ答えよという題目で、

 

「正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。君は口を開けば人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、日本人が人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、 これに反対し、削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で、奴隷狩りをあたかも野獣狩りをするが如くしたのは、どこの国のものであったか。しかし、君等の悪運は最早尽きた。一億同胞なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜の聖戦の勇士とならんことを誓っている。」

 

と演説した。

 

日本人の演説のようだが、これらが開戦まもなく3・1独立運動やその他の朝鮮人識者から朝鮮人民へ語られたことは当時の朝鮮の偽らざる真実なのである。

 

大東亜戦争の理想に共鳴した朝鮮の人々

こうした熱狂の中志願者はうなぎのぼりに増える。ついに日本政府も昭和17年5月徴兵制を朝鮮人に実施することは発表した。当時は国を守る兵士となることは非常に名誉であったから、朝鮮人は日本人だけが歓喜に送られて出征するのを苦々しく思っていた。日本人と朝鮮人は平等と言いながら、我々は二等国民かと失意にいたのである。

 

徴兵制実施の報がもたらされると、同胞たちは早くから…この日の来るのを待ち焦がれていたことか、と歓迎の談話が次々と発表された。当時の雰囲気を1942年5月10日の朝日新聞は、

 

…昨年大東亜戦争開始以後の朝鮮人の戦争完遂に関する熱意は、献金に、あるいはその他各種の銃後援護に強く表明され、内鮮一体の気運はますます強固なるものがあるので、政府は朝鮮同胞のこの赤誠に応え、朝鮮に徴兵制を施行し昭和19年度より実施のごとく…決定した。

 

アジアの諸民族が呻吟し、欧米の締め付けで日本経済は致命的打撃を受け、独立そのものも危うくなっていた。かくて24万2千3百41人の日本国籍の朝鮮人青年が軍人、軍属として戦い、2万2千1百82人が戦病死した。この尊い犠牲があってこそ日本は欧米列強を相手に戦えたのである。

 

今、日本人に「嫌韓」を主張し、「韓国人なんて相手にする必要ない」と叫ぶ人がいるが、戦前・戦中の朝鮮の方々の尊い犠牲を思うなら、そのようなことは口が裂けても言ってはならない、と著者は結んでいる。