明治維新から大東亜戦争終戦までの総括

著者の近現代史を学びたいものは第三部からというアドバイスを実践して第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ、第四部 日韓併合それぞれの苦難、第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂をまとめてふりかえってみたい。

第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ ―二、壬午軍乱と甲申事変 

日本の援軍を期待した金玉均だが、日本は動かず清国袁世凱軍に鎮圧され三日天下におわる。日本へ亡命した者は金玉均、朴泳孝、徐載弼など9名だが、徐載弼などは井上外務卿に「日本は我々を裏切った。これでも武士道の国か」と痛罵して朴泳孝とアメリカに亡命する。福沢もきっと日本政府に対し憤慨したに違いない。

 

その金玉均の師である福沢諭吉の、韓国への思いが裏切られてから、韓国民族への怨念はすざましい。金玉均は革命に失敗してから、福沢の庇護で日本全国を逃げまわる。最後は上海で洪鐘宇によって暗殺されることになる。金玉均を面倒を見ないかつての仲間に、「実に実に呆れ果てたり。事小なりとも雖も、斯(かか)る腰抜け共の棲息しては、亡国も固(もと)より其の処なり」と激烈な手紙を書いている。

 

三、東学党の乱と日清戦争 ―民族運動の登場と独立自尊の教訓

甲午農民戦争で、東学党軍の全琫準を取り上げる。彼は東学軍を指揮して戦うが、その綱領は、人を殺さず、財産を奪わない、忠孝を尽くし、世を救い民を安じる、倭夷(日本)を滅し、聖道をを明らかにする、兵を率いてソウルに入り腐敗した官僚・貴族を滅ぼす、という高貴なもの。袁世凱の介入に日本が対応して朝鮮は両国の戦場となる。袁世凱率いる政府軍が、農民を攻撃するを見て全琫準は降伏して日本大使館に投獄される。日本は捕まえた全琫準の高潔さと見識の高さを評価して朝鮮側に死刑にしないよう働きかける。

 

しかし朝鮮政府は明治28年4月23日(1895年)公使の帰国中の留守を狙って幹部6人を死刑にし、全琫準をさらし首にするのである。享年41歳辞世詩は、

 

時来天地皆同力 運去英雄不自謀 

愛民正義我無失 愛国丹心誰有知

 

時運がめぐって来たときには天地と共に力を同じくして来たが、運がされば英雄も自らを謀ることはできなくなった。

愛民と正義に生きた私には何の過失があるだろうか。国の為に尽くした真心は誰かわかってくれるだろう

 

四、閔妃暗殺と高宗の「俄館派播遷」―感動を呼ぶ李周會将軍・金弘集首相・禹範善親子の物語

閔妃暗殺を扱うのだが、併合以上に近代の日韓関係でデリケートな問題が閔妃暗殺である。 清国の力で大院君との政争に勝ち、閔妃一族が実権を握ると「まず、閔一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるために彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元しました」。(金煕明『興宣大院君と閔妃』)と大粛清を行う。

 

金玉均は「閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しない」、と周囲になんども漏らし、李周會将軍は国王に、「閔妃と奸臣を宮廷から遠ざけ、国王親政を実現するよりほか、国家滅亡を救う道はない。それができなければ、自分の首を斬ってもらいたい」と諫言した。

 

いよいよロシア公使ウェベールは閔妃を使って日本軍が育成した規律厳正な訓練隊を解散させようとしているという情報が三浦公使に入る。また、かねてから閔妃ら閔族の横暴に国中が怨嗟の声に満ちていることに憂慮していた李周會将軍や訓練隊の李斗璜、禹範善等は危機感をいだいていた。三浦公使は意を決して、明治28年(1895年)10月8日未明、皇后閔妃(享年45歳)と女官2名の女性3名を暗殺する。 三浦公使は広島に獄され、李周會将軍は全責任をかぶって供述し処刑される。

 

俄館播遷中に高宗国王は、ロシア公館から金弘集首相ら5大臣に大逆の烙印を押し、逮捕、処刑を命じる。清廉有能な金弘集は日本軍の保護の申し出に、「自分はいやしくも朝鮮国の総理大臣である。朝鮮人のため殺されるのも、また天命である。他国人に救われるのは自分の面目ではない」と拒否して民衆に殺害されたのである。享年54歳。遺体はズタズタにされ市中を引き回され梟首にされた。

 

五、大韓帝国の誕生と挫折 ―徐載弼の教育改革と失われた独立のチャンス

獨協大学中村粲教授指摘の「韓国が真の独立を獲得するチャンスは日清戦争後にあった」を証明するかのごとく進めている。甲申事変に失敗し日本へ逃げ、「日本は武士道の国ならず」と憤慨した徐載弼は、明治28年(1895年)アメリカから帰国する。

 

その年の4月に福沢諭吉が先鞭をつけたハングル文字による新聞「独立新聞」を発行し、7月2日「独立協会」を設立するのである(この「独立協会」には後の李承晩大統領(当時22歳)も参加している)。彼は屈辱的な清国との朝貢のシンボル迎恩門を独立門に、慕華館を独立館に変えてしまう。そして清国を批判する教科書をつくって独立運動を盛り上げる。 (明治30年)1897年2月20日、高宗は1年にわたるロシア公使館への逃避(俄館播遷)を終えて慶雲宮に入るり、国号を「大韓帝国」、自らの称号も国王から「皇帝」に、王后は「皇后」に、王世子は「皇太子」に改めた。元号を改めて10月12日には皇帝即位式を挙行するのである。しかし徐は皇国協会というテロ組織や最終的には政府に狙われ、アメリカに帰ってしまうことになる。

 

六、日露戦争と日韓保護条約 ―一進会積極協力と閔永煥の自決

いよいよ伊藤公と安重根の物語へと続くプロローグなわけであるが、経緯はよく知っての通りだが、日韓保護条約締結をめぐる顛末で閔泳煥の若竹を紹介している。

 

高宗に信頼が篤い侍従武官長であった閔泳煥は同志と共に条約締結結反対の気勢を上げた。しかし日本憲兵隊に阻止されると、「嗚呼国恥と民辱は此処に窮まれり。我等国民は生存競争の中死滅せんとす。おおよそ生を期する者は死し、死を期するもの生く。泳煥は一死を以て皇恩に報ひ、二千万同胞に謝せんとす。泳煥は死すとも死せず。九泉の下にて諸君を助けんとす。我が同胞兄弟よ、奮励倍加し、志操を固くし、学問に力を致し、協力して我らの自由と独立を回復せよ、然らば死せる者も地下にて喜ばむ。嗚呼悲しいかな、されど失望するなかれ。」という遺書を書き、所持していた刀で喉を切って自決するのである。享年45歳。閔泳煥が自決した仏間を家人が250日たって見ると若竹が生えていたという…。

 

七、韓国不滅の民族運動 ―さらに崔益鉉と羅寅永らに見る

彼らの同盟の歌、

 

怨むなよ怨むなよ 日本人を怨むなよ日本人あらざれば 露国の強暴免れじ 龍岩浦をば犯せしを友邦日本の兵力で 之を千里に駆逐せり 是れ恩徳に非ざるか 我が政府に人在りて 内治外交を料理せば日本の如き文明が 野心を起こす理あらん 大韓国勢強勢に 東洋平和の維持あるに大逆無道の国賊が 君を売り国を売り 自ら請うて譲与す 争奪繁きこの時

 

筆者はこの歌を旧約聖書のエレミヤ哀歌と対比し、こう評価する。まず、羅は日露戦争に勝利した日本の役割を評価している。そして韓国民に、責任を日本になすりつけるのではなく、韓国の政治家自身の責任を問う態度を貫いている。そして、韓国の主権が次々と奪われていくのに対して、日本を批判しながらも国民自身の目覚めしかきいを救う道はないことを強調している。最後に、責任を他国に押しつけず、自国民に独立心の振起を呼びかけている。

 

八、高宗皇帝の退位と義兵闘争 

高宗皇帝と伊藤との間のエピソードを紹介する。高宗は伊藤博文総監に頭が上がらず、どうにかして排除したく、僧侶を呼んで伊藤調伏(呪いによって殺すこと)を祈祷させ、死期を占ったりしました。また金升皎という儒学者を特別顧問にして出入させていましたが、明治37年7月、金が憲兵隊に逮捕された時、「聖上日可斬島夷伊藤博文、長谷川好道」の密勅が見つかりました。

 

島国の夷である伊藤総監と長谷川軍司令官を斬れ、という皇帝の秘密命令だ。それを知った伊藤は少しも騒がず、皇帝に対して次のように諌言した。「念仏、祈祷、うらないなどは暗愚の君主がすることだ。山村の隠れ儒者である金升皎などは、四書五経を読んで周代の治教を知っているだけではないか。世界の大勢も知らず、時勢に対応する能力もない。こんなことをするなら、孔子の昔を求めて国政を議したほうがよかろう」。そして高宗皇帝の譲位を迫る宋秉畯とのやり取りがある。

 

「伊藤総監は決して韓国を奪おうとしているのではない。伊藤公は日本の国政に参加して40年。未開の日本をして強国の列に加えた。彼の欲心といえば、貧者な我国を扶けて日本のようにしたい名誉心があるだけである。それに対して陛下は日本との善隣を破るために、1億からの金を費やされた(ハーグへの密使派遣を指す。)この巨額に資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった。

 

これまで陛下が日本の信義に背かれたこと13回、事実が暴露すれば必ず知らずと言い、、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るごときであった。今や新聞事件を(英国人トマス・ベッセルが発行する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する親翰がが掲載)を合わせて15回目の背義に及ぶ。ただ伊藤総監が寛容の心をもって陛下の悔悟を待つ態度をとっているに過ぎない。

 

今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし総監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるかどうか。」高宗皇帝は宋に「それではどうせよと言うのか」、宋は「およそ二つの方法がある。ひとつは日本に行幸して親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝罪するか。

 

さもなくば日本と開戦する」、皇帝は伊藤総監に会い、「ハーグへの密使は自分は知らない」と言い、「内閣が退位を要求しているがそれは不当だと忠告して欲しい」と懇願する。伊藤は「陛下がいかに弁明されても証拠は臣(伊藤)の手中にある、欧米もこの事件を知っており、どうすることもできない。退位は韓国自身の問題であり、関与できぬ」と答えるのみであった。

 

宋は閣僚に対して 「今度の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍ではないか。退位して謝罪してもらうよりない。陛下と国家とどちらが重要か」と言い、李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うしかない」と王室を守るにはこの道しかないと皇帝に上奏するが、高宗は頑として「譲位するなら死んだ方がましだ」と拒否するのである。宋は意を決して御前会議で声を張り上げ、「それではお願いだが、死んで頂きたい。

 

陛下が死ななければ国と王室は生きるであろう。もし陛下がが死ななければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国には何の益にもならない。しかし陛下が死なれれば、国家社会は救われる。どうぞ死んでいただきたい」。高宗は第二子坧純宗に譲位することになる。

 

九、安重根と伊藤博文 ―二人の合同慰霊祭を営む心 

伊藤博文と安重根の顛末を考える。韓国人に韓国の偉人を聞くと、李舜臣将軍とともに必ず名前が上がるのが安重根義士である。であるから、両者を相互に理解することこそ、日韓の和シテ同ゼズの共感的理解を促進する近道なのだと思う。

 

八、高宗皇帝の退位と義兵闘争 

概観した第三次日韓協約での高宗皇帝退位の顛末後、軍隊の解散命令が発布され、全国に義兵運動が起こる。安重根もこのゲリラ活動に加わり、連合大韓義軍が組織されると参謀中将になる。しかし日本軍には到底かなわず、ウラジオストックへ亡命する。ここで韓国人有志を募り断指同盟を結成するのである。断指同盟とは、左手の薬指の第三関節から切断して国旗に、大韓独立と血書して決意を固めたことに由来する。安は10月22日同志の禹徳淳とともにハルピンに到着する。伊藤公の到着を26日と知ると、24日に即興で漢詩をつくるのである。

 

大丈処世兮其志大矣 時造英雄兮英雄造時

雄視天下兮何日成業 東風漸寒兮荘士義熱

憤慨一去兮必成目的 鼠窃伊藤豈兮肯比命

豈度至此兮事勢固然 同胞同胞兮速成大業

万歳万歳兮大韓独立 万歳万々歳大韓同胞

 

伊藤博文公を殺害後、安重根は日本が自分のことを義士として扱っていることに驚く。食事は上等で弁護士が2人ついて彼の立場を擁護する。一方日本人の検察官や判事、そして看守にも安の獄中での態度に深い感銘を受ける。なんと彼に揮毫を依頼する日本人は200名にも達したという。安の思想はそのような日本人との接触を通じて次第に、「我は果たして大罪人なり。我が罪は他にあらず、我が仁をなす弱きは、韓国人の罪なりという」、洗練されたものに到達する。安は彼の看守をしていた千葉十七と特に親しくなり、以下の様な感慨を漏らすのである。

 

「私は、ほんとうにやむにやまれぬ心から、伊藤さんの命を奪ってしまいました。韓国の悲惨な現状は、伊藤さん一人の責任とは言えないかもしれませんし、伊藤さん一人を倒しても韓国の危機を脱しえないとは思われませんでしたが、どうしても日本の中心人物を目標とせざるを得なかったのです。自分の行為に対する正邪の判断は、後世歴史の審判に待つとして、私はこの大切な命を天にまかせて、祖国のために捨てようと決心したのです。それが遠い遠い我が祖先から頂戴てきた無窮なる命の流れに、また帰ってゆくのだとと考えたのです。

 

……もうくよくよするのはやめようと、検察官の尋問に答えたのもそのためです。悠久なる韓国の歴史の上に一個の捨石となれば、満足であると私は思っています。いつの日にか、韓国に、日本に、そして東洋に本当の平和が来て欲しいのです。千葉さんわかって下さい。伊藤公にはまったく私怨はなく、公の家族にも深くお詫び申しあげたいのです」。

 

千葉は安重根に揮毫を依頼ており、処刑前日、為國獻身軍人本文・庚戌三月 大韓國人 安重根謹拝と揮毫して千葉に渡す。千葉をそれを自宅の仏壇に安置して供養したという。昭和54年、千葉の遺族は安重根生誕百周年を機に、安重根記念館に返還している。絶筆はいまでも千葉の菩提寺大林寺(宮城県若柳町)に安と千葉の記念碑に絶筆が刻まれている。

 

十、親日的愛国者・李容九の生涯 ―内田良平・武田範之・宋秉畯らと共に

一進会が果たしや役割を論じている。一進会は先に高宗皇帝に退位を迫った宋秉畯の維新会と李容九が組織していた進歩会が合併して作られる。宋秉畯は評議員長に就任している。要綱は、韓国皇室の尊栄、人民の生命財産の安個、政府施設の改善、財政・軍政の整理、日本軍への積極協力であった。

 

彼は興亡の岐路にたった韓国の運命を座視できなかったのである。涙ぐましい協力を日本軍に対しておこなったのである。日本人が忘れてはならないのは、彼ら一進会(公称80万人から100万人)の協力がなければ、日露戦争に日本は勝利できなかったかもしれないということだ。日本は日露戦争に辛勝するが、一時的にひいたとは云え、ロシアの南下の脅威は韓半島に残ったままであった。伊藤博文の暗殺を機に、武田範之に「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」の執筆を依頼する。

 

12月4日、皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に提出をし発表するのである。声明書には一進会百万会員の署名がなされ、韓国の衰退は自らの反省と自覚の欠如であり、日韓は4千年以上の交流があり、韓国が欧米列強の支配下陥ったら、ビルマ、安南、ハワイ、フィリピンのように、皇族は流刑され、国民は流浪し、国家は廃墟となるであろうと訴えている。しかし彼の対等合邦の主張むなしく、8月29日日本は大韓帝国を併合を発表することになる。

 

李容九には授爵の内示があったがこれを「私が栄爵を受ければ、そのため国を売ったと言われても、弁解はできない。日露戦争以来私と共に惨憺たる犠牲の中に粉骨砕身努力した一進会会員のことを思うと、どうして私だけが栄爵を受けられようか」ときっぱりと断るのである。9月12日には一進会は解散命令を受け一進会は解散する。その翌日彼は失意のうちに喀血し倒れる。そして明治45年5月22日後事を宋秉畯へ託すと遺書を残し、永眠するのである。享年45歳。 李容九の遺骨が京城駅に到着すると寺内総督、明石警務総長以下、侍天教徒など2000人が出迎え、6月2日の葬儀には明治天皇の勅使、李王殿下御使等を含め、5000人が参列したという。

 

十一、相互感応史の提唱 ―日韓・歴史共同研究をめぐって

歴史認識の共有は馬鹿げているという朴正煕大統領の側近金鍾泌元首相の言葉「歴史を共有することは馬鹿げている」を引用している。九、安重根と伊藤博文の稿で先出の安重根が伊藤公を暗殺する直前に即興でつくった漢詩をもとに日韓の教書騒動に言及している。昭和61年の高校の教科書で安重根のことを安重根壮士と記述したところ、韓国から壮士にはゴロツキという意味があると抗議され、日本に文部省は教科書の修正に応じたが、壮士と安重根自身が称しているのである。

 

歴史の共有ということがいかに難しいかの一例であろう。著者は最後の「歴史の「共同研究」というなら、相互の立場を理解したいものです」と結んでいる。 続いて、第四部 日韓併合それぞれの苦難 朝鮮統治三十五年の光と影をふりかえる。一、日韓併合のプリズム分析 ―併合に対する国際的評価と併合の必然性では、合併の経緯について他国との比較をした。そして各国に根回しをした結果、列強が自国の権益に支障がなければ東亜安定のためにはやむを得ないと判断したので合併に踏み切ったと解説している。 8月29日の純宗皇帝の勅諭を発布する。

 

皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し。中夜憂慮善後の策茫然たり。

 

此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん。寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。 故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。

 

惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。 朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ。爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。

 

隆煕四年八月二十九日

御璽

 

著者はこの勅諭を皇帝純宗の至純素直な真心の披瀝であり、深い感銘を覚えると語る。併合は不本意であるが国民生活向上のためやむを得ない決断であった。それは旧態依然とした両班制度が色濃く残り、腐敗、不正な警察機構、司法機構による国民の辛苦にあった。各国人が見た当時の拷問などを紹介しながら、外国人はなぜ日本がもっと韓国内政に干渉してそれらを正さないのかと、糾弾していることを紹介している。  

 

日本としては韓国民衆の人権的問題と福利向上をしろという各国の声に答える形で併合をする。しかし、併合によって起きたのは、一つの民族が他の民族を併合することがいかに困難なことか。いくら相手国に資金を注ぎ込み、生活向上に尽くしても感謝されない、という事実だけであった。最後に著者は自由社会では、認識や解釈に相違が出てくるのは当然のことなのです。それを認め合い、理解し合うのが友好に繋がるのです、示唆を与えている。 

第四部 日韓併合それぞれの苦難 二、日韓併合を肯定した韓国人たち 責任を当時の指導者に押し付けなかった人々 

李完用、宋秉畯、李容九ら現在の韓国史で売国奴として蔑まれている人たちを取り上げた李完用の臨終の言葉、「私の生涯は汚辱で終わるのだ。人々は、栄光の生涯を度外視して汚辱の生涯だけを拡大して伝えるだろう。―中略― わたしも、自主独立だけを絶対値に信じる者だ。ただ、その次善の策が親日であっただけだ。なぜ併合条約を前後して、この国の独立主義者たちはわたしをぶち殺さなかったのか、密かにもの足りなく思う」を紹介して、こう解説する。

 

李完用の言葉には韓国の民衆を不正と困窮から救うことが、もはや自国ではできないと、為政者らしく悟っていたことがうかがわれる。腐敗しきった宮廷、中央官吏、地方郷吏を政府内閣の力ではどうにもできない現状の吐露ではないだろうか。一方、李容九暗殺など、一貫して国王の意向に従ってきた洪鐘宇は後年、「韓国も今や末路である。滅びざる国はなく、4千年の旧邦も今や断末魔に近づいている。

 

一進会員ならざるも哀々たる庶民は此上塗炭の苦しみにまみれたくなかろう。むしろ、日本は速やかに併合して日本天皇陛下の政によりて、12百万国民が蘇生することを得れば、国は滅んでも滅び甲斐ありと言わねばなるまい」と述べている。 李成玉や朴栄喆の言葉を引用しながら、最後にこう締めくくる。「確固たる国家意志が定まらず、ムードに流され、多民族を統治するだけの成熟度に乏しかった昭和史の流れを、国民として反省すべきではありませんか。自らの反省を行わず、責任を当時の指導者に押し付ける無知で傲慢な態度こそ恥ずべきであります」。

 

三、吉野作造が見た初期の朝鮮統治 ―シカゴ大学教授スタール博士の警告 

大正デモクラシーの旗手、吉野作造教授の目を通した統治初期の韓国の姿が語られた。

 

「父祖はその財産のため府の長官に度々捕縛されてそのたび多額の身代金を徴収されたという朝鮮人の話から統治時代はそのような不正がなくなったことを一定評価しながらも、同化政策には「異民族の同化は可能であるとしても、それは困難な事業である。―中略― 異民族に接する経験も浅く、ややもすれば他民族を劣等視する狭量な日本民族には極めて困難である」

 

と懐疑的な発言をしている。生活が向上したからと言って異民族を統治することの困難さを思い知らされる。

 

五、3・1事件と2・8事件 ―一国が独立することの意味を問う 

日本統治下で起こった最大の独立運動である、3・1事件扱っている。2・8事件とは大正8年(1919年)2月8日、李光洙や張徳秀、白寛洙らが神田の基督教青年会館(YMCA)で、独立宣言文を朗読して、読み終わると同時に一斉検挙された事件である。李光洙は宣言文を執筆している。

 

この事件をきっかけに、朝鮮でも独立宣言集会の準備が、普成専門学校長(高麗大学)崔燐が中心となり進められ、天道教最高実力者孫秉熙を代表に、宣言文は文学者の崔南善が書く。3・1独立事件の始まりである。3月1日午後2時、場所はかつて王家の守護寺があった、バゴダ公園と決まる。

 

宣言書は天道教、キリスト教、仏教のそれぞれ信徒2万1千枚が配布され、3月1日に署名した33人がパゴダ公園に集まり、他の参加者と共に宣言文を朗読し、非暴力,無抵抗による平和的示威を呼びかける手筈だった。しかし正午を過ぎるころから、公園に学生ら群衆が集まり始め、殺気だった雰囲気となっていた。 2時になり、仏教会代表韓龍雲が宣言文を読み上げ終了すると孫秉熙代表の音頭で朝鮮独立万歳と唱和した。孫秉熙代表は総督府に電話をして逮捕を促した。

 

しかし彼らが憲兵隊に連行されたことがパゴダ公園に伝わると群集は激昂して宣言文が読み上げられた。この群衆騒動が全国に波及して、総督府報告で参加者106万人、死者553人、負傷者1409人の数カ月に渡る放火、投石、暴行、惨殺など大暴動に発展したのである。

 

<六、閔元植による「3・1運動」総括 ―雑誌『太陽』掲載の「朝鮮騒擾」善後策で閔妃の血統にある、閔元植の論文、「朝鮮騒擾善後策―鮮民の求めるは斯くの如し」「このたびの3・1独立運動の近因は、米国ウイルソン大統領の民族自決主義を朝鮮に適用されるとという誤解から起こった。

 

もしくは誤解を装った在外朝鮮人の扇動に由来した。初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。常識的に見れば狂気の沙汰といえる。しかし日本人に不満をいだいているのは確かだ」。彼は思想穏健で国家に対して忠誠の志を持つもの対象に、官吏登用、参政権付与、言論・集会・結社の自由、教育の機会均等を与えることを提言している。

 

アジアを取り巻く国際的状況を念頭に置き、3・1独立運動をふまえて日鮮両国民に今後の進路を示した、彼の歴史観に現代の日韓両国民は学ぶべきだと著者は指摘する。閔元植は翌年の大正9年の第42回帝国議会に参政権嘆願書を提出する。その後も彼は議会が開催されるたび嘆願書を提出したが、大正10年、日本大学の梁槿煥という急進的独立派の青年に暗殺される。

 

彼の合法的参政権運動は、暴力的急進派からは「併合を既定事実にする分裂運動」と反発を買っていたのである。 結局、性急な反日独立闘争以外はすべて半民族的行為だと決めつけ、その関係者を暗殺してゆく朝鮮の独立運動はその後も、内部分裂と対立を繰り返し、確固とした独立組織を構築できないまま、日本の敗戦を迎えることになったのである。

 

 

七、大韓民族独立運動の父・安昌浩 ―独立自尊・国力培養を訴えた独立運動の指導者 

安昌浩を取り上げた。彼は独立協会に参加したが、その失敗から独立を勝ちとるには「まず実力をつけなければならない」と得心する。それは、

  1. 経済的や軍事的なものばかりではなく、人材育成におい同様で、様々な事業や学校、組織をつくり人材を育成する。
  2. 韓国で最初の男女共学の私学「斬新学校」を始め、三つの近代的学校を設立した教育運動家
  3. 韓国最初の青年団体「青年学友会」や修養団体「興士団」を設立した青年運動指導者
  4. 韓国で最初の株式会社を設立して、出版なども手掛けた産業振興の実践者
  5. 秘密組織「新民会」を結成、上海大韓民国臨時政府の閣僚として独立運動グループの大同団結を尽くし、金九、呂運亨などのリーダーを育成、満州地域に根拠地を建設を図った独立運動家

 

アメリカを中心にロシアに及ぶ韓国人連携団体をつくり、生活改善運動を進めた在外韓国人指導者である。福沢は「一身独立して一国独立す」と言ったように、安昌浩も「一身を独立させ、国を失った韓国を独立させよう」と訴えたのである。安昌浩が韓国の福沢と呼ばれる所以である。 第四部は併合を肯定してした人々と肯定的に捉えながら独立を目指した人々を紹介しながらその明暗を見た。

第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂は、知られざる大東亜戦争期の両国の一体化した熱狂を見た。

まず、 

一、「内鮮一体」と「皇民化」 

皇民化運動が促進される様子が概観される。満州事変で満朝国境付近の朝鮮民族の権益が擁護されて、盧溝橋事件後の支那事変で屈辱的な三跪九叩頭の礼で朝貢していた宗主国中国に断固たる態度で行動を起こした日本を熱狂的に支持したと考えられないだろうか。

 

二、聖戦完遂に熱狂した朝鮮の人々 

いよいよ大東亜戦争においての両国の熱狂と愛国を紹介する。2・8事件で独立宣言文を書いた、李光洙は「私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れずこの聖業に邁進するものであるからにして、子々孫々の栄華を得るであろう」と、また申興雨は「祖父の代から受け継いできた黄色人種の積墳を今こそ晴らさなければならない。一度決戦する以上、帝国行路の癌である敵性国家を粉砕し、……新東亜建設に邁進しなければならない」と演説した。

 

さらに朱耀翰もルーズベルトよ答えよという題目で「正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。君は口を開けば人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、日本人が人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、 これに反対し、削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りをあたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国のものであったか。

 

しかし、君等の悪運は最早尽きた。一億同胞なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜の聖戦の勇士とならんことを誓っている。」と日本人顔負けの演説をしている。朝鮮人は大東亜戦争の理念に共鳴したのであった。

 

三、韓国の西郷隆盛・金錫源将軍 ―日本人を率いて戦った朝鮮人 

金将軍の日韓の交流を描き、

 

四、李光洙と崔南善の唱道した大東亜戦争 ―対日連携を積極的に説いた朝鮮の独立運動家たち

2・8事件と3・1独立の宣言文を書いた二人、李光洙の内鮮一体論と日鮮同祖論と崔南善の大東亜戦争聖戦論にストットを当てる。李光洙は

 

「…内鮮両民族は血をともにした民族である。2000年前にはひとつの民族であったのであり、そのごも、1200年前に百済から日本に渡った百済の子孫が、内地埼玉の高麗村で、日本人と結婚し、その後の孫は混血の完全な日本人となって、その数は1800万人にものぼる計算になる。それに、おそれおおくも、皇室にも2度にわたって朝鮮の血が混じっている。―中略― だからわれわれは天皇陛下の臣民として忠義を尽くさなければならぬのであり、われわれの芸術もまたそうあらねばならぬのである。(「新体制下の芸術の方向」昭和16年1月)」と言い、崔南善は「聖戦の説文」と題して次のように論じている。

 

「聖(※)という文字は3つの要素から構成されている。まず「耳」。耳は上に天声を聞き下に民意を聞くことをあらわすものだ。天声はすなわち、正義に与する真理と良心の命令であるから、かの世界歴史の帰趨から現世紀の課題となっているアジア解放のごときがそれである。そして、大東亜戦争において米英の桎梏に泣く東亜10億大衆の祈願をかなえてやることは、また民意の垂察にある最大聡明なことたらざるをえない。 第二に「口」は真理と良心の命ずるところを実行の目標として、はっきりと掲出してこそ、破邪顕正、遮悪掲全の軍号となるものである。大東亜戦において東亜の安定を確保してこそ、真に万邦共栄の世界秩序を確立するらんと述べられた聖戦の大詔が粛布され、ここに斉声嘆仰と協心翼賛の誠意を表白した大東亜会議の共同宣言が続いて嵩呼されたのは、正に転輪聖王の陣頭のみあらわれうる大獅子吼であるというべきであろう。 第三に「壬」の字は。真理と良心の権威として、所轄集団の指導にのぞむ統率者の指揮棒を意味する。すなわち高邁な地位から権力を持って大衆を指導するものが「聖」という言葉の意味だ。偉大な事業であればあるほど、それにふさわしい指導原理と指導勢力を必要とするものであるが大東亜戦争には八紘為宇の精神にくわえてそれを実現するに足る日本帝国の実力があって、信頼と饗応が日々深みと厚みを増していくのは、あらためて贅言を要するまでもない事実である」

※(聖の下辺のと『王』は『壬』と書く『聖』の字が書かれている)。

 

2・8事件、3・1事件の中心人物の二人の独立運動家が大東亜戦争に共鳴共感したかがわかる。

 

六、「日朝の大義」に生きた崔慶禄少尉 ―小野大佐を慕い続けた元駐日大使

十、洪思翊中将の忠誠と佐藤栄作の陰徳 ―「韓国人犠牲者慰霊塔」の建立をめぐって

十一、陸軍士官学校で学んだ朝鮮の青年たち ―韓国の李亨根将軍が植えた市ヶ谷台の桂の木

日本の軍人精神を受け継いだ日韓交流のエピソードを紹介し、韓国大使の悲しい状況で親日派の苦難を示唆している

七、特攻戦死した朝鮮人の悲劇 ―15人の戦歿者は何を思って散ったのか 

は殆ど知られていない特攻攻撃で散華した15人のエピソードを紹介する。15人の名前は、フィリピン、近藤行雄伍長(昭和19年11月25日)、松井秀雄伍長(昭和19年11月29日)、林長守曹長(昭和19年12月7日)、沖縄、大河正明伍長(朴東薫 昭和20年3月29日)、高山昇中尉(崔貞根 昭和20年4月2日)、結城尚弼少尉(金尚弼 昭和20年4月3日)、河東繁伍長(昭和20年4月16日)、平木義範曹長(李允範 昭和20年4月22日)、木村正碵伍長(昭和20年4月28日)、光山文博少尉(卓庚鉉 昭和20年5月11日)、広岡賢哉伍長(昭和20年5月11日)、金田光永伍長(金光永 昭和20年5月27日)、石橋志郎少尉(昭和20年5月29日)、清原鼎実伍長(韓鼎実 昭和20年6月6日)、他、河田清治少尉(盧龍愚 昭和20年5月29日)の15名。私達は彼らの存在を決して忘れてはいけない。光山文博少尉(卓庚鉉 昭和20年5月11日)がトメさんとトメさんの娘さんたちと泣きじゃくりながら歌った。

 

アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を 越えてゆく

わたしを捨てて 去く人は 十里も行かずに 足が痛む

 

十二、日韓提携による韓国独立を目指した呂運亨 ―韓国独立を支持した総統府、支持しなかったアメリカ 

大東亜戦争終戦前夜、日韓の連携のよる、韓国独立を模索した呂運亨を取り上げた。詳しい内容は本文へ譲るが、ここでは歴史的事実を整理しておく。

 

8月15日は韓国では「光復節」であり、日本では「終戦記念日」だが、どちらも法的根拠のない、いわば、それぞれの象徴的記念日と言える。ちなみに連合国各国では日本が停戦協定に調印した9月2日を対日戦勝記念日としている。国際法上の終戦(戦争状態が集結したという意味で)はサンフランシスコ講和条約が発行した、1952年4月28日をいうポツダム宣言受諾、玉音放送、8月15日以後も朝鮮半島は日本統治が続行されていた。

 

このため朝鮮総督府や景福宮、民間の工場にも日の丸が翻っていた。9月9日に降伏文書が調印されるまで日本総督府及び朝鮮軍管区によって治安は維持されており、大規模な群集蜂起も革命も起きなかった。

 

降伏文書に署名を行ったのはアメリカ側が沖縄第24軍団長ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側が朝鮮総督阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官上月良夫中将だった。朝鮮人の名はない。アメリカは交渉相手として日本を選択したのである。日本以外に交渉する政治勢力は朝鮮半島に存在しないとアメリカは判断した。

 

韓国はここでも自力で独立していない。上海にあった大韓民国臨政府の大統領で、当時アメリカに居た李承晩は、昭和20年3月の国連設立の会議に韓国代表を参加させようと、アメリカ国務省に要請したが、グルー国務長官代行は「大韓民国臨時政府」が韓国国民を代表しているとは認められない。

 

アメリカ政府の方針は大韓民国臨時政府をはじめとする諸組織と接するに当たって、連合国が戦争に勝った後に、韓国民が最終的に自ら望む政府の形態と、幹部を選ぶ権利を損なわないことにあるとにべもなく拒否されている。  

 

明治維新の1868年から大東亜戦争終戦は1945年までの77年間、日本は極東の小国から世界5大国へと飛躍し、敗戦と共にすべてを失った。一方朝鮮は1897年、大韓帝国として清国から独立、その後、1910年に日本が併合して一時独立を失うが、日本の敗戦と共に独立を回復するが、南北に分裂したままである。

 

この77年間、日本と朝鮮はある時は反目し、ある時は熱狂的に一体化して、極東の平和と安寧に貢献した。併合時代の34年と11ヶ月間を現在韓国では「日帝36年」として暗黒の歴史として教科書に記述している。

 

しかし私達日本人は、概観したとおり、日本を頼りにした人たち、日韓で連携した人達、併合を推進した人達を決して忘れてはいけない。特に満州事変から大東亜戦争期、アジア解放の理想を、自国の独立達成もを含め、共鳴共感した多くの人達が最後は、あるものはアジア解放の理想のために、あるものは朝鮮人魂をみせるために、またあるものは祖国朝鮮のために、特攻という形で散華していった事実を心に留め置かなければいけない。

 

外交は慰霊からという著者のアドバイスの通り、靖国神社の御祭神として眠る、21000柱の朝鮮人の魂の鎮魂なくして、今後の日韓関係はないと思う。そのためにも私達日本人は靖国神社に参拝し靖国杜でご護国の鬼となった、朝鮮人2万1000柱、台湾人2万8000柱を含む、246万6532柱の英霊に哀悼の意を表さなけれなならない。