第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 十、親日的愛国者・李容九の生涯

内田良平・武田範之・宋秉畯らと共に

日本の明治維新にも勝者と敗者のの悲劇があるようにアジアに夜明けの胎動にも同様な悲劇と悲劇の人がある。いずれも日本に国家独立のひな型を見て、その日本と手を組んで国を導こうとした人たちだ。中国では汪兆銘であり、韓国では李容九である。汪兆銘夫妻は売国奴として座像にされ、いまでも道行く人が唾を吐いて罵倒できるようにしている。

一方韓国では李容九ら一進会を国賊随一に挙げている。李容九は慶尚道に生まれ、23歳の時、東学党の2代教主・崔時亨の門に入る。3・1独立運動の代表孫秉熙と共に東学党の幹部として活躍する。東学党の乱では全琫準を支援して、日本軍と戦い彼の身体には日本軍の弾丸が入っている。1899年(明治33年)孫秉熙とともに日本を訪問して、多大な影響を受けることになる。彼はこうさとる。

 

朝鮮の改革運動は単なる国内問題として解決できる性質のものではない。広いアジア的視野で取り組まなくてはならない。それと共に、アジアの眼が日本に注がれるようになったのは、明治維新に成功して、完全な独立国になったからである。

 

滞日中、急速に日本に傾倒するのである。特に彼に影響を与えたのが樽井藤吉の大東亜合邦論であった。李容九は日韓同盟こそロシアの南下を防ぎ、アジアの復興と朝鮮の改革を実現する道だと感じたのである。彼は早速帰国して進歩会を結成する。日露戦争が勃発すると宋秉畯らの維新会と進歩会は合同して一進会を結成する。会長が李容九、評議員長に宋秉畯が就任する。一進会は要綱、5項目を掲げる。

  1. 韓国皇室の尊栄
  2. 人民の生命財産の安個
  3. 政府施設の改善
  4. 財政・軍政の整理
  5. 日本軍への積極協力

日露の開戦によって興亡の岐路にたった韓国の運命を座視できなかった李容九は涙ぐましい協力を日本軍に対しておこなったのである。内田良平が代表を務める黒龍会は中韓問題に積極的に取り組んでいた政治団体であり、内田は一進会の顧問に就任すると共に、内田が傾倒し師事していいた僧侶(曹洞宗)武田範之は師賓となるのである。後に武田と李容九は刎頚の友いえる仲になる。一進会は崔益鉉らが起こした義兵闘争を、

 

「彼らは危機を前にして、自力を培養することを考えず、自尊心のみが先走っている」「力もなく、自らを省みることもせず、抗議ばかりしている」

 

と痛烈に批判するのである。伊藤博文は当初、一進会を東学党の流れをくむ不穏団体と見ていたが、内田や武田の斡旋で李容九に会うとその、至誠至純な愛国的な国士であると知る。その後、明治42年、安重根による伊藤暗殺の報に李容九は長嘆息する。11月4日の国葬の日、一進会は独立館で追悼式を挙行している。李は今こそ悲願の日韓合邦を実現すべき時であると、武田範之に「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」の執筆を依頼する。

 

12月4日、皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に提出をし、発表するのである。声明書には一進会百万会員の署名がなされ、韓国の衰退は自らの反省と自覚の欠如であり、日韓は4千年以上の交流があり、韓国が欧米列強の支配下陥ったら、ビルマ、安南(ベトナム)、ハワイ、フィリピンのように、皇族は流刑され、国民は流浪し、国家は廃墟となるであろうと訴えている。

 

しかし韓国国内世論は合邦反対で沸騰するのである。一進会と李容九は四面楚歌の状態に陥るのである。宋秉畯などは対等な合邦は実現性が低いとし、韓国皇帝の権限をすべて日本国天皇に移譲することが、最も現実的方策として李容九の合邦論に反対する。李完用首相は李容九に反対しながらも、日本に極秘裡に高度相を派遣して以下の提案をしている。

  1. 韓国帝位を安寧ならしめること
  2. 元老を家族に加えること
  3. 地位にあるものは相当の礼遇をすること
  4. 韓国国民は総て日本に入籍し日本臣民とすること
  5. 韓国政界の大臣は韓国人を当てること

合邦に反対していた、曾禰荒助総監は更迭され、後任に寺内正毅が就任すると、合併は一気に加速する。8月22日に皇帝は、「韓国全部に関する一切の統治権を、完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与する」という8ヶ条からなる合併条約に調印し、29日両国で発布される。明治天皇は、

 

余は、東洋の平和を永遠に維持し、大日本帝国の安全を将来にわたって保障することの必要を念じ、また常に韓国が、禍乱(災いや混乱)の原因となることを見て、すでに余の政府に、韓国政府と協定(日韓議定書および3次にわたる日韓協約)を結ばせ、韓国を帝国の保護下に置き、災いの源を根絶して平和を確保することを期した。

 

韓国の合併要求を受け入れるという詔書を発せられた。韓国皇帝は、

 

韓国の統治権を従前から親信依仰していた隣国の大日本帝国皇帝に譲与する。これによって韓国民は、日本帝国の文明と新政に朋従し、幸福を共に享受しよう。  

 

という趣旨の勅諭を発表した。 このまで陰に日向に獅子奮迅、尽力した内田良平はその日感慨を込めて和歌を作っている。

 

韓衣たち合わせてもみつるかなわが敷島の

大和錦に今日よりはありなれ川みそぎして天照す日の影仰ぐらむ

 

李王族は皇族に列せられ、高位にあったものには華族として爵位が与えられた。李容九には授爵の内示があったがこれをきっぱりと断るのである。 

私が栄爵を受ければ、そのため国を売ったと言われても、弁解はできない。日露戦争以来私と共に惨憺たる犠牲の中に粉骨砕身努力した一進会会員のことを思うと、どうして私だけが栄爵を受けられようか。一進会はその後9月12日に解散を命せられるのである。この時武田範之は「狡兎死すれば、走狗煮らる」とつぶやいたという。すばっしっこい兎が死ねば、猟犬は不用になって煮て食われてしまうという、中国のことわざである。この解散命令は李容九や武田範之には強い衝撃を与えるが、内田良平は少し立場が違っていた。

 

彼の合邦運動の目的は、

  1. 日本の国防線の延長
  2. 朝鮮人民の特権階級からの解放

であった。日韓併合はかれの第2目的を失わせたが、大正時代になると朝鮮人民参政権請願運動を起こすことになる。 内田の達成感とは裏腹に李容九と武田範之の虚脱感は彼らの身体にあらわれる。李容九は解散命令の翌日、喀血して病床につく。武田範之も喉頭癌で郷里の新潟県で療養生活となる。

 

二人の書簡は、歴史家の葦津珍彦氏が「悲痛なる先人の書簡資料」と題して書いているように、悲痛に満ちている。 李容九は明治44年5月5日京城から兵庫県須磨海岸に転地して、養生することになる。武田が入院する東京根岸の養生院に詩を寄せている。6月12日武田範之は永眠するのである。

 

そして翌年5月22日後事を宋秉畯へ託すと遺書を残し、永眠するのである。享年45歳。 李容九の遺骨が京城駅に到着すると寺内総督、明石警務総長以下、侍天教徒など2000人が出迎え、6月2日の葬儀には明治天皇の勅使、李王殿下御使等を含め、5000人が参列した。

 

大東亜戦争の日本の敗戦後、李容九と宋秉畯は売国奴、第1級として韓国史にその名を留めることになるが、李容九の遺児、李碩奎(日本名大東国男)は李容九の生涯―善隣友好の初念を貫く (1960年) (時事新書)を上梓する。一方宋秉畯の孫、野田真弘氏は売国奴―李王朝末秘史 (1977年)を刊行する。

 

二人の父、祖父対する評価は対照的だが、出版に尽力したのは佐藤栄作ということが共通する。佐藤と李容九と宋秉畯はいかなるつながりなのだろうか。