第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 統括

1910年の日韓併合から100年目の2010年、政府民主党は統治に対する謝罪をする考えを表明している。「日本は韓国側が希望する形で謝罪を行うことを希望しており、謝罪によって歴史問題に一定の終止符を打ちたい考えだ」ということらしいが、その前に政府は謝罪が必要なら何故必要かを国民に周知する必要がある。私はむしろこの100年を機に日本への「感謝」要求を韓国にしてはどうかと思う。韓国を最初に独立国として国際的に承認したのは日本であるし、ロシアの侵略から護ったのも日本である。

首相以下、官房長官や一部の議員は、歴史的無知で「謝罪、謝罪」と言っているが、(そういえば菅総理の唯一の経歴は薬害エイズでの謝罪だったか)ほんとうに謝罪が必要か、名越先生の日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになるを熟読してからにしてもらいたい。一国の政府が公式に謝罪するということは、現在の国民に過去の国民が犯罪者であったと、他国に宣言するに等しく、父母の世代を犯罪者としての烙印を押すことである。

 

同時に第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 七、特攻戦死した朝鮮人の悲劇の稿で紹介するある女性校長の話のように日韓関係においては日韓併合を推進した人々や、あるいは大東亜戦争の意義に共鳴した多くの朝鮮人への裏切り行為でもあることを政府、国民も肝に命じなければならない。

 

政府は国民にその経緯を十分に説明すべきでなないのか。対照的な意見を併記して国民に示し、そのうえで国民世論の大多数が謝罪が必要と支持するならばわたしのも唯々諾々とその世論に従うことは吝かではない。しかし十分な謝罪する理由を提示できないまま、偏ったデマゴーグとも言える、教科書記述でアジア近代史教育をしておいて、謝罪などというのは現政府のみならず野党自民党も未来の日本人に対し大きな負の遺産を残すことになる。

 

さて、ここまで十一項にわたり、日韓関係の肝、明治維新から日韓併合までの軌跡を見てきた。おさらいすると、

 

一、征韓論と江華島事件

―西郷隆盛の遺韓外交と朝鮮の動向

二、壬午軍乱と甲申事変

―大院君の再登場と金玉均の乱

コラム①日本に残る金玉均の遺産

コラム②福沢諭吉「脱亜論」の真意

三、東学党の乱と日清戦争

―民族運動の登場と独立自尊の教訓

四、閔妃暗殺と高宗の「我館播遷」

―感動を呼ぶ李周會将軍・金弘集首相・禹範善親子の物語

コラム③三浦梧楼公使の真意

五、大韓帝国の誕生と挫折

―徐載弼の教育改革と失われた独立のチャンス

コラム④ロシアの朝鮮進出

六、日露戦争と日韓保護条約

―一進会積極協力と閔永煥の自決

コラム⑤なぜ朝鮮半島が戦場になったのか

コラム⑥ロシア将兵の慰霊塔を先に建てた乃木将軍

七、韓国不滅の民族運動

―さらに崔益鉱と羅寅永らに見る

八、高宗皇帝の退位と義兵闘争

―終戦時の昭和天皇と対比して

九、安重根と伊藤博文

―二人の合同慰霊祭を営む心で

コラム⑦石川啄木と伊東公暗殺

コラム⑧伊藤統監政治に対する外国人の評価

コラム⑨安重根の供養を続けた千葉十七

コラム⑩韓国にとっての伊藤博文と日本にとってのマッカーサー

十、親日的愛国者・李容九の傷害

―内田良平・武田範之・宋秉畯らと共に

コラム⑪李容九に対する「東京朝日新聞」の評価

コラム⑫樽井藤吉の『大東合邦論』

コラム⑬『李容九の生涯』と『売国奴』

十一、相互感応史の提唱

―日韓・歴史共同研究をめぐって

 

コラム⑭内田良平と「日韓合邦記念塔」

それぞれの項目に日韓の相克、葛藤ドラマがあることはおわかりいただけたのではないか。なんども書くが、高宗帝(1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王として(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)34年間、後に大韓帝国初代皇帝として(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)10年間、実に44年の長きにわたり朝鮮、韓国の君主として君臨して、本稿の日韓併合までの関係史の中心にいた。

 

同時期、日本は明治天皇(嘉永5年9月22日、1852年11月3日) 生まれ、 明治45年(1912年)7月30日崩御。慶応2年12月25日、1867年1月30日、慶応3年1月9日(同2月14日)、満14歳で践祚の儀が行われ、即位)が維新を経て日本の立憲君主として統治されている。

 

高宗帝は日韓併合後は日本の皇族徳寿宮李太王としてその生涯を閉じることになる。思えば幼くして即位したため、成人までは父大院君が、その大院君が閔一族に追放されると、閔妃と閔一族に実権を握られることになる。

 

その閔妃が日本によって暗殺されてからは、清、ロシア、アメリカなどの列強、特に親ロシア的政策で日本を始めとする勢力に対抗しようとするが、その優柔不断さから結局、各国の信頼を失い、列強は日本の韓国保護政策を認めることになる。

 

「九、安重根と伊藤博文、―二人の合同慰霊祭を営む心で」で紹介した当時の韓国政府の外交顧問であるアメリカ人スティーブンの帰国時の記者会見での韓国評は、

 

韓国の王室と政府は腐敗しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚昧に過ぎる。これでは独立の資格なく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤総監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない。

 

これは当時の文明国の共通の理解ではないだろうか。常に甘言で工作をかけてくる国の意見を重用して、国際的信義を無視する君主に、当時の政府閣僚は手を焼いていた。 前言を翻すたびに要人を処断処刑することを苦々しく思っていたのは何も閣議で退位を迫った宋秉畯ばかりではない。

 

日本会議発行の「日本の息吹8月号」に呉善花拓殖大学教授が「日韓併合100年に思うこと」という一文を寄せている。そのなかで呉教授は日本の朝鮮統治が欧米の植民地経営と全く異なることを3条件をあげて説明している。

 

第一は収奪によって内地を潤すという政策が取られなかったこと。つまり最後まで投資過剰で赤字経営であたこと。南部には近代的な工業地帯ができ商業が発達して、米産は飛躍的に伸び、電話や電力といった社会インフラが全国的に整備されたこと。

 

第二は武力的な威圧をもっての統治政策を全般的に取らなかったこと。3.1独立運動の教訓から憲兵警察の廃止や言論や出版の制限政策の廃止でその後の抵抗運動が全くなくなったこと。

 

第三は文化、社会、教育の近代化を強力に推進したこと。併合時100校しかなかった小学校を1942年には1村2校、全国で5000校までにし、国立大学までも設置したこと。

 

当時の日本政府が貿易輸出先として、韓国の経済発展を推進したという論説もあるが、少なくとも輸出先として韓国が経済成長をする前に日本は敗戦で朝鮮半島の権益を失うことになるので収奪はしていない。韓国併合の肯定派と否定派の主張は概ねWIKIに纏められているのでそちらも参照されたい。

 

英国人女性旅行家 イザベラ・バード が朝鮮を訪れたのは、1894年、62歳の時である。以後3年余、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。折りしも朝鮮内外には、日清戦争、東学党の反乱、閔妃暗殺等の歴史的事件が続発する。

 

国際情勢に翻弄される李朝末期の不穏な政情や、開国間もない朝鮮に色濃く残る伝統的風土・民俗・文化等々、バード の眼に映った朝鮮の素顔を忠実に伝える「朝鮮紀行」("Korea and Her Neighbours")に書かれている李朝末期(約100年前)の朝鮮の姿は凄まじい。以下に引用する。

  • 貨幣制度が(ほとんど)なく、ソウルは世界有数の汚く悪臭のする都市であり、一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。道はとにかく悪い。
  • 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。
  • ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。周囲の山々は松の木が点在しているものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。
  • ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がSeoulにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。

これが合邦前の朝鮮半島の姿なのである。