第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 三、韓国の西郷隆盛・金錫源将軍

日本人を率いて戦った朝鮮人 朝鮮人最初の金鵄勲章

日本の陸軍士官学校出身の将校の活躍は目覚しいものがあった。45期以降では4割が戦死、50期、52期、57期は全員が戦死したようだ。ここで紹介する金錫源少佐(当時)は陸士27期で第一線で先頭指揮した。その他ニューギニアで米軍と死闘を繰り広げた李鍾賛氏や、戦闘機を駆使して南方戦線で戦った金貞烈氏など、日本人も及ばない活躍をした人を挙げれば枚挙にいとまがない。

金将軍は明治42年(1909年)、韓国武官学校の生徒として、陸軍幼年学校の生徒として日本へ留学をする。洪思翊中将の一期後輩で、創氏改名していなかった。陸軍士官学校を卒業、日本の部隊に配属される。以後も韓国人としての栄誉を忘れずに大佐まで栄進する。

 

金将軍が脚光を浴びたのが、支那事変初期、少佐として大隊を指揮して山西省で戦っている時だ。部隊が全滅に危機の陥ったが、右翼担当の金少佐の指揮で中国軍を殲滅できた。この戦いで金少佐に金鵄勲章・三級が授与された。通常左官では功四級なのだが、朝鮮人として初めてばかりか、左官としても稀な功三級の栄受だった。

 

金少佐の奮戦は朝鮮の新聞で連日報道されている。朝鮮人が日本人を指揮して、三跪九叩頭の礼で迎えていた元宗主国の中国軍部隊を壊滅されたのであるから、朝鮮人にとってこれほど痛快なことはない。金部隊奮戦記、金錫源部隊激戦記、戦塵余談などその興奮が伝わる。早速崔南善は金少佐を思うという歌を作詞して、李鍾泰が作曲して歌にした。さらに銃後半島の愛国歌謡大会を京城で9月に開催されたとき、崔南善と金億の作詞した歌謡も発表され、題名だけ挙げると、金少佐を思う、従軍看護婦の歌、正義の師に、銃後の義勇、防護団歌、長城の守り、正義の凱歌などである。

 

戦後韓国軍が創設されると、第1師団長に乞われて就任したが、当時の韓国の親日派狩りの為か准将だった。日本軍の厳格な軍人精神を受け継いでいた金師団長は政治活動を優先する軍人を叱り、李承晩大統領にも面前で直言したので、まもなく予備役編入となる。予備役編入後は目標38度線を宣して義勇軍を組織したのである。

 

昭和25年6月25日、北朝鮮が38度線を破って侵攻すると再び首都師団長に就任する。時に参謀長は元日本陸軍少尉崔慶禄大佐だった。金師団長は壊滅敗走する韓国軍を叱咤し続ける。「攻撃も防御も死を持って戦うときにのみ、勝機は訪れる」という日本軍人精神で、日本刀を振りかざし部下を奮起させるのである。

 

大田から撤退して大邱で踏みとどまった韓国軍は9月15日、仁川上陸作戦が成功して38度線まで盛り返すことになる。韓国ではこの時の金将軍の奮戦が、上陸作戦を成功に導いた見る韓国人が多く、金将軍は朝鮮動乱の英雄にもなったのである。

 

韓国で最も尊敬される英雄

金将軍は動乱後かねてからの希望であった、城南中高学校の理事長になり、青年教育に尽力することになる。その教育方針は、中武公・李舜臣の精神の継承と、新羅時代の花郎(武士道)精神の復活にあった。学校の講堂には国旗と共に檀君の肖像画が掲げられ、正面玄関には李舜臣の銅像が置かれている。

 

著者が金将軍を訪問したときに、韓国人に金将軍のことを聞くと、「韓国で最も尊敬されている国民的英雄」とか「韓国の西郷隆盛」というような評を耳にしたという。ご長男は陸軍士官学校を出て、大東亜戦争で戦死し、靖国神社へ祀られている。昭和55年の偕行社の総会に金将軍が招かれたとき、「自分の長男は戦争に参加して戦死した。

 

それは軍人の本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶したという。並み居る旧日本軍人たちは、金将軍に軍人精神の真髄を見たという。