第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 六、「日朝の大義」に生きた崔慶禄少尉

―小野大佐を慕い続けた元駐日大使 日朝の大義に生きる

昭和17年、反抗を開始した連合軍は南西太平洋方面において急速にその勢いを増しつつあった。大本営は朝鮮の竜山に配置し、対ソ戦勃発にウラジオストック攻略に当てる予定の第20師団を急遽、南方の東部ニューギニア戦線に投入することに決定した。12月にはウエワクに上陸、マダンに進出して米豪軍迎撃の体制に入った。

この第20師団に、後の韓国陸軍参謀総長や駐日大使を歴任する崔慶禄(日本名新田慶吉)がいたのである。崔慶禄氏は麾下の歩兵第78連隊に所属していた。崔慶禄は転戦の時、士官学校入学の内定を受けていたのであった。しかし崔慶禄は実父と思う小野大佐の元で「日朝の大義に生きる」ことを心に決めていたのである。

 

小野武雄大佐は第20師団の作戦参謀で(後参謀長)崔慶禄を見所あると聞き、師団司令部で面談するのが、二人の交流のきかっけである。小野は山口中学時代には後の首相岸信介や佐藤栄作とは親友だった。最初に小野は崔慶禄にあったときも「内地人が朝鮮民族に随分すまんことをしている。困ったものだ」「日朝は、一視同仁で、手を携えて立派な国造りをしなければならない。お互い喧嘩などしている時ではない」と話し、崔は「一視同仁といってもお互い歴史習慣からそれぞれ得意な事情もあるので、なかなか一視同仁にはならないでしょう。しかしお互い努力はすべきだと思います」と答えたという。

 

小野は崔慶禄の見識を褒めて「以後は親と思って遠慮無く相談に来い」と士官学校の受験を勧める。以後の交流で崔慶禄は小野から「日朝の大義に生きる」尊さを学んだという。ニューギニアに赴いたとき小野は崔慶禄がまだ師団にいることを知らなかった。司令部に通訳として出頭した崔慶禄を見た小野はひどく驚き、「お前は陸士に入らず何故戦地に来た。絶対に死んではならん」と叱りつけたという。

 

小野はその後も崔慶禄に会うたびに「必ず生きて帰って日朝の大義に生きよ。体を大切にせよ」と諭したのであった。しかし戦局は緊迫し米豪軍の猛攻は日増しに激しくなり、崔慶禄はこの地で勇戦奮闘することこそ、大儀であると決意を固めるのである。9月22日ラバウルと東部ニューギニアを結ぶ要衝であるフィンシハーフェン付近に上陸、10月16日から約3ヶ月に及ぶ、第20師団と米豪軍によるフィンシハーフェン攻防戦が始まるのである。

 

大東亜戦争の中でも最も激しい戦闘の1つに数えられるこの戦闘は、制空権を完全掌握した米豪軍が、爆撃と戦車によって攻撃するのに対し、第20師団は決死の肉弾戦を挑む。彼我の戦力さ10倍以上にもかかわらず、翌年1月まで米豪軍を釘付けにするのである。

 

第20師団が後退するのは所属の第18軍の命令によって新たな戦線に集結するためであった。この戦闘で第20師団は1万2500名の内、5500名を失う。崔慶禄がこの死闘に参加したのは言う迄もない。11月19日の第2次総攻撃で連隊斬込隊長となり、部下19名を率いて3度の攻撃をしている。

 

3度目には敵の機銃陣地からの猛射で部下18名は戦死、自身も全身に8箇所の銃弾を受けて瀕死の重傷を負った。もはやこれまでと覚悟を決めたところ、ただ一人生き残っていた出田与一上等兵が腹部に被弾していながら、動けない崔慶禄を担ぎ、あるいは引っ張って、3日かかりで日本軍の第一線まで運んだのである。

 

2人が最前線に辿り着いたとき偶然にも小野大佐が前線視察に来ていて崔慶禄を発見した。小野は自分の雨合羽を着せて、恩賜の煙草をくわえさせて、「この男を殺したら陛下に申し訳が立たない。絶対に助けなければならない」と軍医を呼び2人の後送の支持をした。しかしこの時すでに、出田与一上等兵は絶命していたという。崔慶禄は後年、

 

旧日本軍が厳正なる軍紀のもと、上下信倚し、進んで職責に殉ずるの美風には今なを、感嘆を禁じ得ないものがあります。あのフィンシハーフェンの当時、私は一斬込隊長、しかも韓国の出身です。しかるに、私の伝令、出田上等兵は、自らも重症を負いながら、私を背負い敵の重囲を突破して救い出し、そして、自らは到頭死んでしまったのです。あのように最悪な状況でも、なお軍規が守られていたことはさすが精鋭師団でした。私は何時の日か、出田兵長のお墓参りをすることが悲願です。

 

崔少尉は身動きできなままマニラの陸軍病院に後送され一命を取り留めるが、本来なら前線の病院に搬送されるのが普通である。それは陸軍大佐の襟章がついた雨合羽と小野大佐のはからいで付き添った軍医大尉のせいである。東部ニューギニア戦線で陸軍大佐は3人しかいなかった上に、軍医大尉が付き添っていることでマニラの病院に入れられたのである。

 

小野大佐は終戦まで米豪軍と激闘を続け、壮絶な戦死をしている。第20師団に所属した将兵は合計2万5591名で復員したのは811名である。後年、崔慶禄は駐日大使として日本へ赴任することになる。日本へ着任と同時に宮中へ参内して、天皇陛下に信任状を捧呈した。

 

元帝國陸軍少尉新田慶吉が、かつての大元帥陛下に会って、韓国大統領から駐日大使に任ぜられたことを報告したのである。会見は10分の予定が40分も及んだという。大使はこの時のことを誰にも漏らしていない。崔は駐日大使として中曽根首相の訪韓と全斗煥大統領の訪日を実現する。以下に崔慶禄氏の日本についての辛言を紹介して締めくくるが、真の日本人を知る真の親日韓国人であるから現在の日本を叱咤激励できるのである。

 

戦前の日本人には、信頼できる立派な日本人が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当のことを言う人が皆無に近い。私がもし日本の首相だったら、1日でよい、洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって国民は目覚め、日本は本来の姿にたちかえるに違いない。(友人福家隆氏陸士53期に)

 

日本の政治家に"何故日本の軍隊は自衛隊なのか。名称を変えて日本国軍とすべきではないか"と質問したが、時期尚早だとの答だった。私も日本の平和憲法を知っていいる。しかし自衛隊は誰が見ても軍隊である。その実態をごまかし"自衛隊"というのは極端に言えば詐欺じゃないか。侵略はゆるされないが、敵に攻撃されたとき、堂々と備えるのは、国家として当然の権利であり、義務である。どうして世界の一部諸国及び一部国民の顔色を窺う必要があるのだろうか。…アジアの強国日本が、自衛隊を"日本国軍"と名称変更し、堂々と軍事力を強化し、アジアの防波堤になることを期待する。(産経新聞インタビュー昭和63年1月11日)

 

崔慶禄駐日大使は帰国後、日本との音信を絶ことになる。産経新聞に寄せた文章で反日派から厳しく糾弾されたという。ここに日韓関係の難しさがあるのである。