第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 十一、陸軍士官学校で学んだ朝鮮の青年たち

韓国の李亨根将軍が植えた市ヶ谷台の桂の木

新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛省)に記念碑、慰霊碑を集めた地域があり、桂の木が植えられている。(現在の防衛省内にあるかは確認していない)その中に桂の木が傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。

表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」

裏面「韓国陸軍大将」

側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」

韓国陸軍大将の李亨根が、恩師桂鎮雄への

謝恩の意を表明するために植樹したものである。

 

李亨根は昭和14年12月1日に陸軍予科士官学校に陸士56期生(予科第5期生)として入校する。校舎は昭和15年まで市ヶ谷台にあった。56期の総員は2400名、初級将校として大東亜戦争に参戦して1000名近い戦歿者を出している。同期には朝鮮出身者が4名おり、李亨根は第2中隊第3区隊に配属された。その時の区隊長が10期先輩の桂鎮雄大尉であった。桂区隊長は李生徒には特に気を使っており、李生徒に話しかけてはその言葉に学ぶ姿勢をとったという。そういう誠意ある振る舞いが、李生徒をして桂区隊長を終生の師と仰ぐようになったのである。

 

そして、1993年(平成5年)12月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡で、

 

「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」。

 

李亨根氏の桂区隊長への尊敬の念は逝去にいたるまで変わらなかったことがわかるのである。

 

李亨根は昭和17年12月、陸士予科から陸士本科を卒業して、見習士官として第3師団第3砲兵隊付となり、支那戦線に赴任後、昭和18年5月27日、陸軍少尉に任官した。同連隊には同期生には、終戦時の陸軍大臣の次男、阿南惟晟(これあき)も配属された。阿南少尉は昭和18年11月20日、南支の常徳作戦において壮絶な戦死を遂げた。

 

昭和20年8月14日、李大尉は阿南邸を訪ね、阿南少尉の戦死状況を同君の母堂の阿南夫人や同家の家族に報告している。李亨根はその時のことをこう語っている。

 

「…三鷹連雀の阿南陸軍大臣邸を訪問したのは昼下がりの4時頃であった。折柄御在宅中の御母堂綾子夫人を始め可愛らしい御弟妹さんたちは不意の来訪にも拘らず非常に喜ばれた。談たまたま惟晟兄の戦死の状況に至るや熱心に傾聴されて居た御家族の目頭には露がたまり、御母堂は静かにハンカチを瞼に添えられるのであった。私は御心情を思い到底言葉を継ぎかねたが「嘗てご両親様から同期として死生苦楽を共にする様にとお諭しにも拘らず、未だ戦争中とは云え一人だけ生き残って面目有りません」と申し上げると流石の母堂もハラッと落涙されながら「どうか惟晟の分まで頑張って下さい。阿南(大臣)が連日連夜の激務で近頃は帰宅致しませんので、明日私と一緒に陸軍省に参りましたらどんなに喜ぶことでせう。今夜は私どもの家で御ゆっくり」と勧められて、私もつい御厚意に甘えて実家に帰った気持ちでその晩はお世話になることにした。」

 

「…翌日(昭和20年8月15日)午前4時か5時頃であったろうか。突然けたたましい電話のベルで目が覚めた。急いで御母堂は相手に応答される御声が一言二言聞こえたらと思ったら「そうですか」とだけ言われて、ススリ泣く声だけで後が続かない。不審に思って襖をあけて廊下に出たら御母堂がガックリされた御様子で「阿南(大臣)が自決しました」と一言だけ漏らされたのであった。…こういう場合、私は一体何ともお慰めの仕様もなく、又緊迫した時局も直感されたので予定を速めて帰還するに決し、一応辞退した朝食もそこそこに頂き心からの哀悼を捧げ、断腸の思いで御邸を辞去し東京駅へと向かった…」 

 

8月15日ポツダム宣言を受諾した我国は連合国に降伏して戦争は集結し、韓国は悲願の独立を回復した。李亨根は故国へ帰り創建された韓国陸軍の育成に全力を傾注した。昭和25年6月朝鮮動乱がはじまると第2師団長(准将)として、北軍の猛攻をくいとめる。その後第3軍団長に就任して在韓国連軍の一翼を担い勇戦した。戦争終結後功績によって陸軍大将に栄進する。 冒頭に紹介した植樹は李将軍が役職を全て退いた1968年(昭和43年)に実現した。当時、市ヶ谷駐屯地に駐屯していた陸上自衛隊第32歩兵連隊の連隊長が前述の蔵田十紀二であったことが、植樹実現を容易にしたのである。李将軍の同期には崔貞根、金鐘碵、崔昌植がいる。

 

崔貞根

第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 七、特攻戦死した朝鮮人の悲劇でも名前を取り上げているが、昭和20年4月2日沖縄島周辺洋上で敵駆逐艦に体当たり、散華している。日本名高山昇中尉 享年26歳。かれは常々「天皇陛下のためには死ねない」と語っていた。同期の日本人が李亨根に聞いた。すると「その気持は貴様らには判らんだろなあ、それが判るときが、両国の本当の友好が生まれる時だ」と答えたという。

 

金鐘碵

第24師団第32連隊で沖縄戦に参加、米軍に投稿して終戦後帰国。韓国軍に登用されるが、1947年の済州島謀叛事件で、反乱分子への韓国政府の過激な鎮圧に批判的だったため処刑されたようだ。

 

崔昌植

工兵科将校となって第104師団の第104工兵連隊に配属、南支で終戦を迎える。帰国後、韓国陸軍工兵監の要職に抜擢を受けるが、朝鮮戦争の緒戦の漢江橋梁爆破作戦において、爆破時期を誤り、友軍が北岸でまだ戦闘中であり、さらに住民避難中に爆破を実施したとして、軍法会議にかけられ銃殺刑となった。1962年朴正煕大統領のもと再審が実施され、崔大佐に責任なしとして名誉が回復した。夫の名誉回復直後、崔夫人は安堵のため急逝したという。

 

ここでも親日派と見られた韓国人の李承晩政権下の過酷な運命が垣間見られる。しかし李亨根将軍が語った、崔貞根の「天皇陛下のためにはしねない」という言葉に対しての「貴様らにはわかわんだろなあ」という感想は重い。