第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 十二、日韓提携による韓国独立を目指した呂運亨

―国独立を支持した総統府、支持しなかったアメリカ

日本の敗戦から、現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国はどのようにして、独立承認されたのあろうか。ここからの流れは反日日本人も嫌韓日本人もしっかりとつかんで欲しい。

 

8月15日は韓国では「光復節」であり、日本では「終戦記念日」だが、どちらも法的根拠のない、いわば、それぞれの象徴的記念日と言えるであろう。ちなみに連合国各国では日本が停戦協定に調印した9月2日を対日戦勝記念日としている。国際法上の終戦(戦争状態が集結したという意味で)はサンフランシスコ講和条約が発行した、1952年4月28日を言うのであろう。

 

連合国に承認されなかった「大韓民国臨時政府」

ポツダム宣言受諾、玉音放送、8月15日以後も朝鮮半島は日本統治が続行されていた。このため朝鮮総督府や景福宮、民間の工場にも日の丸が翻っていた。9月9日に降伏文書が調印されるまで日本総督府及び朝鮮軍管区によって治安は維持されており※1大規模な群集蜂起も革命も起きなかった。

 

降伏文書に署名を行ったのはアメリカ側が沖縄第24軍団長ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側が朝鮮総督阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官上月良夫中将だった。朝鮮人の名はない。

 

アメリカは交渉相手として日本を選択したのである。日本以外に交渉する政治勢力は朝鮮半島に存在しないとアメリカは判断したのである。中国には「大韓民国臨時政府」が存在し、大東亜戦争勃発と同時に形式的に日本に宣戦布告しているが戦闘には参加していない。アメリカはこの臨時政府の承認を拒否している。1945年3月戦後の国際秩序維持を目的とした「国際連合(UN.org)」を創設を決定してサンフランシスコで会議を開催した。

 

この時臨政府の大統領で、当時アメリカに居た李承晩は韓国代表を参加させるようにアメリカ国務省に要請した。しかしグルー国務長官代行は「大韓民国臨時政府」が韓国国民を代表しているとは認められない。アメリカ政府の方針は大韓民国臨時政府をはじめとする諸組織と接するに当たって、連合国が戦争に勝った後に、韓国民が最終的に自ら望む政府の形態と、幹部を選ぶ権利を損なわないことにある」と述べ参加を拒否している。

 

一方日本側は終戦にあたり朝鮮の独立を認める方針であった。朝鮮総督府は日本政府がポツダム宣言に受諾を決定するや、すぐに終戦処理案を検討している。遠藤柳作政務総監が、独立派のリーダー宋鎮禹とあって終戦後、日本人の生命財産の保護と引換に統治機構を韓国人へ引き渡すことを申し出ていた。李承晩、金九といった独立運動の最高指導者が国外亡命中であり、彼らの存在を無視するわけにも行かず、総督府から移譲された統治権では日帝の傀儡政権として非難される恐れもあり、宋鎮禹はこの申し出を断るのである。

 

しかしこの際、独立政府をつくってしまえというリーダーが居た、当時60歳の呂運亨である。彼はやがて進駐してくる連合軍との交渉も独立政府がなければ出来ないではないかと、まず連合国と交渉できる政権をつくってから亡命している独立運動の要人を呼び戻そうと主張した。

 

宋鎮禹らとの議論は紛糾し、宋鎮禹らの意見も確かに正論であり、彼らも一歩も引かないことで統一見解が打ち出させずに時が過ぎたのであった。アメリカ軍は進駐してくる、ソ連が満州に攻めいって略奪を繰り広げる。このままでは朝鮮半島はアメリカかソ連の支配下におかれてしまうと判断した日本側は呂運亨を交渉相手に選んだのである。呂運亨は1914年、李承晩らと共に中国に亡命して、臨時政府に参加、中国孫文やソ連要人とも関係のあった国際派の独立運動家であった。

 

大正8年(1919年)の3・1独立事件の後、東京に招かれた彼は帝国ホテルで講演して、「日本が朝鮮を併合したのは、当時ロシアの南下する勢いがあったから、やむを得ずといった措置であろうが、すでに帝政ロシアは革命で崩壊している。日本が朝鮮を領有しているかぎり、中国の民衆は日本を信じない。朝鮮を独立させて、日本、朝鮮、中国のアジア3カ国が提携すべきである」と述べている。

 

その後、上海で逮捕、朝鮮で投獄され出獄後は中央日報の社長となって言論活動に重点をおいた。その鋭利な国際情勢分析には朝鮮の人民に影響を広く与えた。

 

臨時政府は中国にもアメリカにも承認されず李承晩もアメリカからは冷遇されていた。反日テロを繰り返しても埒があかないと判断した呂運亨は大東亜戦争勃発と同時に政治路線を変更する。それは「存亡に危機に立つ日本に必要な和平工作をして助け、日本に朝鮮独立を承認させる」というものだった。時の朝鮮総督小磯国昭大将とも長時間交渉している。

 

小磯は呂運亨の世界的視野からの独立論に共鳴して個人的に精神的諒解を与えたと言われている。戦争末期、日本の敗北を確信した呂運亨は朝鮮の独立運動を精神的に支援していた思想家葦津珍彦に朝鮮ホテルの一室でこのように訴えた。

 

日本の敗戦後の対日弾圧は、徹底的にきびしく、日本の諸君の想像以上の存亡に危機に立つ。朝鮮の形は独立するが、建国の人材は乏しく極東の小国に過ぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両民族が相扶け相和すべきの天機。私はそのために全力を尽くす

 

そうして大きな紙に「萬里相助 呂運亨」と大書して葦津氏あての年号誌して、日本の支援者へ伝言を依頼したのである。呂の視点は独立後にあった。独立後、新興国家・韓国が経済発展を遂げるには、ソ連や中国の圧力に屈しないだけの実力を養わなければならない。そのためには隣国日本の協力が不可欠だと考えたのである、この判断の正しさは歴史が証明した。(韓国の独立後、徹底した反日路線を敷いた李承晩政権下で、韓国経済はどん底に落ち込み、国民生活は日本統治下以下になった。韓国が経済発展を始めるのは反日の李承晩政権に変わって、元日本軍人・朴正煕が政権を掌握し、日本と国交回復して、経済協力を取り付けてからのことである。)

 

総督府は呂運亨のこうした考え方を理解していたと考えられる。だから行政権を平和裡に韓国側へ移譲したいと申し出たのだと思う。呂運亨は遠藤総監と会い、行政権委譲の意志を明らかにして、5項目の条件を提示する。

  1. 全朝鮮の政治犯の即時釈放
  2. 三ヶ月分の食糧確保
  3. 治安維持と国家建設事業に干渉しないこと
  4. 朝鮮の推進力である学生の訓練と青年の組織化に干渉しないこと
  5. 朝鮮内の事業場で働く日本人労務者を国家建設に協力させること

総督府は条件を受け入れる。呂運亨はその日の夕方に、安在鴻らと「朝鮮建国準備委員会」を発足させた。17日総督府から治安維持の権限を引き取り、言論機関を引き継いだ。※2建物には太極旗が翻った。しかし「建国準備委員会」には宋鎮禹らが参加していおらず、亡命中の要人の帰国の目処も立っていなかった。

アメリカも朝鮮独立の指導者たちを信用していなかった

18日連合軍は総督府に機密命令を発し、しばらく総督府が朝鮮統治を継続することと、この機能を保全して連合軍に引き渡すように命じたのである。

 

18日に一旦は引き渡された行政権と言論機関も接収された。朝鮮側は激怒するが、総督府の権限ではどうにもならない。実際に治安を維持していたのは日本軍と総督府の警察だった。

 

呂運亨は朝鮮人民共和国(主席予定李承晩)の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを否認・無視する。ホッジ中将率いる米軍が9月8日に仁川に到着すると、朝鮮人民共和国の代表が出迎えるが相手にされないどころか、市民外出禁止令にもかかわらず、500人ほどの朝鮮人が太極旗や赤旗をもって花束や贈り物をアメリカ軍に渡そうとする。

 

アメリカ軍の警備隊は勘違いをしてこれに発泡、死者5人を含む多くの重傷者を出した。アメリカが日本の支配から解放してくれる救世主だと思っていた朝鮮人はどう思ったのかを考えると哀れになる。呂運亨と対立した宋鎮禹は朝鮮人民共和国打倒を宣言したが、12月30日自宅で暗殺される。昭和20年9月に帰国した李承晩は人民共和国からの首班指名を断り、独立促進中央委員会を組織して、反共・民族主義的な国家建設を目指した。

 

ソ連占領下の北部を切り離して独立する提案をアメリカに承認させて、1948年(昭和23年)5月に反来勢力ほとんどがボイコットした選挙で圧勝、8月15日に大韓民国を樹立、初代大統領に就任する。重慶の大韓民国臨時政府の金九は李承晩に遅れること2ヶ月、彼も人民共和国からの入閣要請を断り、臨時政府の正当性を主張、新政府を作ろうとしたが、アメリカの承認が得られず頓挫した。彼は統一・自主独立を原則としたので李承晩の南朝鮮単独政府樹立に真っ向対立し、大韓民国樹立を否認したため、李承晩に暗殺される。呂運亨はアメリカ信託統治を認めつつ、南北朝鮮が統一国家として独立する道を模索したが、昭和22年7月、自宅で暗殺される。

 

その後、政敵を次々に暗殺して李承晩によって大韓民国は樹立され、北にはソ連の意を受けた金日成が朝鮮民主主義人民共和国を樹立、両国は分断国家として今日を迎えている。李承晩、金日成とも徹底した反日政策を強制して、親日派を弾圧・粛清したため、強烈な反日国家になってしまった。もし呂運亨が暗殺されず、独立の主導権を握っていたら、日韓関係も極東情勢も現在とは全く違ったものになっていただろう。

 

WIKIの光復節(韓国)の「朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)のほとんどが日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている。」という記述は感情的で正確ではない。