第五部 大東亜戦争 朝鮮への鎮魂 十、洪思翊中将の忠誠と佐藤栄作の陰徳

「韓国人犠牲者慰霊塔」の建立をめぐって、洪思翊中将

19世紀後半、列強と日本は朝鮮半島の独立をめぐって対立する。日本基本姿勢は半島の独立と安定にあった。しかし朝鮮宮廷は独立派の要求や反乱を他国の軍隊をもって鎮圧しようとする。日清戦争の直接の引き金である。結果日本が朝鮮半島のイニシャティブを獲得すれば、ロシアの庇護を受ける(俄館播遷)。

今度ロシアが南下し朝鮮半島侵略の牙を剥けば、以夷制夷(侵略者をもって侵略者を制す)とばかり米英仏を引き入れる、といった崔基鎬や呉善花らが指摘するように「場当たり的な対応に過ぎない」、事大主義(清国冊封体制中の外交姿勢を指すのであるが、この場合大国へ追従する姿勢という意味で使用している)に陥っていた。

 

1897年(明治30年)、念願の清国の冊封体制から離脱独立して、大韓帝国となり高宗国王は高宗皇帝として即位した。1900年(明治33年)には軍事力強化のため軍人勅諭を制定する。日本の軍人勅諭は五ヶ条(忠節、礼儀、武勇、信義、質素)だが、韓国の勅諭は「軍人ハ言語ヲ慎ムベシ」の一条加えて六ヶ条である。

 

しかし大韓帝国の軍隊組織には両班制度が色濃く残り、情実がまかり通る宿弊から脱しきれずにいた。そこで純宗皇帝は徴兵制に切り替え、指揮官を養成する必要から、1907年それまでの軍隊に解散を命じる。(解散命令を拒否してピストル自殺を遂げた朴昇煥少佐、そしてそのことがきっかけで義兵運動が起こる顛末は第三部 列強圧迫下・苦悩のドラマ 八、高宗皇帝の退位と義兵闘争を参照)

 

そして1909年9月、韓国軍の中から36名を選抜して日本の陸軍幼年学校に入学させた。その中の一人に本稿で取り上げる、後の陸軍中将洪思翊がいるのである。韓国軍再建の重責を担い留学した36人は日本軍の規律の厳しさ、厳正さに魅了されてしまう。やがて1年8ヶ月後韓国は日本に併合されると彼らは悩み苦しむが、相談の上、訓練を継続して任官してから進退を決しようと決める。

 

洪思翊と同期の池晴夫のように、3・1独立事件後(陸軍中尉時)に亡命して、上海の大韓民国臨時政府に合流し、光復軍の司令官になったものもいる。洪思翊は亡命することなく、陸軍大学校を卒業して陸軍中将に栄進するのである。欧米の植民地で現地人が下級将校になった例はあるが、将官になった例を知らない。彼の生涯は「面従腹背」だったのではない。彼は彼の同僚や長男にアイルランドの民族闘争を学ぶよう、暗にアドバイスをしている。

 

彼は高宗皇帝から下賜された軍人勅諭を常に身につけていたと云われている。また創氏改名をしていないのである。指揮官になると日本兵の前で、「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮をとる。異議のある者は申し出よ」と初訓示していたという。彼は日本軍人となった朝鮮人を陰に陽に庇いながら、終戦時にはフィリピンで捕虜収容所の所長をしていた。

 

そのため戦犯裁判にかけられて部下の責任をとって処刑されることになる。昭和21年9月26日、処刑される時、クリスチャンの片山氏に「旧約聖書の『詩篇』第51編を開いて読んで欲しい」と依頼する。詩篇は150編からなるイスラエル黄金期の祈祷書で、第51編は神に憐憫を求めたダビデの祈りの歌である。洪中将は死に臨んで、敵味方の恩讐を超えて憐憫給わらんことを祈ったのだろうか。

 

洪中将は処刑台の下まで来ると「片山君、元気で帰るのだよ。君にも神様が何か使命を与えている。その使命のために生きるのだよ」と片山の肩を叩く。そうして13階段を登りながら振り返ると、「神の国で待ってよ」と最後の言葉を残したという。洪思翊は朝鮮人として神に忠誠を誓い、与えられた使命を果たして、神の国へ旅だったのであろう。 

韓国人犠牲者慰霊塔と佐藤栄作の陰徳

洪思翊中将のご家族が親米反日的な李承晩大統領治世の韓国で辛酸を嘗めたことは想像に難くない。長男洪国善は李承晩大統領の命令で朝鮮銀行を辞めさせられた。未亡人李清栄は一切の職業から締め出されるて無一文で来日する。

 

来日の直接の目的は昭和43年12月8日、京都市東山霊山観音廟の境内に「韓国人犠牲者慰霊塔」建立の除幕式に招かれたからである。慰霊塔には日本軍人・軍属として処刑された二十三柱を中心に日韓併合から敗戦までの犠牲者が祀られた。

 

除幕式には洪中将の遺族他10名の遺族代表が招かれ、遺族らは感激のあまり頬を涙で濡らしたという。洪中将の遺族は日本に居残り、佐藤栄作首相と会う。佐藤首相は昭和12年(1937年)鉄道監督官として、上海から南京までの華中鉄道建設に従事していて、興亜院調査官として華中連絡部(上海)にいた洪思翊中将に公的に世話になったという。首相は未亡人と長男に会うと「大陸時代の洪氏への誼みにこたえる餞別として些少だが受け取っていただきたい」と私財百万を贈与した。

 

佐藤首相は当時現職にあり、大っぴらに支援ができなかったようだったという。未亡人はその後6年間日本に留まるが、昭和50年3月、次男の顕善氏が留学している、ロサンジェルスに旅立つのである。同年5月19日、佐藤栄作氏自身が主催する長栄会が築地の料亭「新喜楽」でおこなられ、自民党幹部・財界首脳が一同に会した。

 

偶然にも洪思翊氏の遺族との面談の労をとった、小野田セメントの安藤豊録氏が佐藤氏の隣席になった。安藤氏は洪思翊中将の遺族のその後を「未亡人は総理から頂いた百万円は貯金しておいたので、6年間で利子が数十万ついて、そのお金で渡米し、次男宅に落ち着いた」と報告した。

 

 すると佐藤氏は「安藤さん有難う。気にかかりながらも立場上充分なことができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と述懐したという。その直後、少し離れた席にいた福田赳夫氏と二言三言言葉を交わした佐藤氏は、安藤氏の膝の横に倒れて、その後意識を回復せずに6月3日に永眠した。最後の言葉は「忘恩の徒にならずにすんだ」であった。