第六部 韓国に尽力した日本人たち

さて感動の日韓秘話を中心として日韓2000年の物語を集約した、日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになるを紐解いているのだが、近代以後の韓国に尽力した日本人達の活躍を簡単にふれておく。 

一、光化門をまもった柳宗悦 ―李朝美術を再発見し、朝鮮民族美術館を設立した芸術家

柳宗悦は明治43年に志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎らと創刊した雑誌「白樺」の最年少の同人だった。大正3年に白樺の愛読者で彫刻家の浅川伯教から李朝の壺を譲られて魅せられてしまう。

 

大正5年に初めて朝鮮に渡り、浅川伯教の実弟浅川巧と知り合う。そこで花崗石の羅漢菩薩像の美しさに驚嘆する。しかし当時の朝鮮の石工は鮮民同然でそうした人々がつくる作品の評価は低かったのである。そんな折に3・1運動が起きたのである。彼は朝鮮民族に同情して日本の朝鮮政策を非難した。そのことがきかっけで朝鮮の芸術家との交流が生まれる。

 

彼は朝鮮民族美術館設立を発願して、朝鮮で頻繁に音楽会や講演会を開いては募金を募った。ついに念願かなって大正13年京城景福宮緝敬堂に開館する。この2年前の大正11年、日本政府は朝鮮総督府を建設するため、光化門を取り壊す事になったことを知ると、「改造」に「失われんとする、一朝鮮の建築の為に」という一文を発表する。

 

その文章が内外で評判を呼び朝鮮総督府は光化門を移転することにしたのである。光化門は朝鮮戦争で焼失してしまう。朝鮮民族美術館は昭和23年、大韓民国独立後に国立中央美術館に吸収された。宗悦らが集めた美術品の一部は見ることができる。

 

復元された光化門(写真は)2010年8月15日の一般公開される。最後の工事が行われている光化門(クァンファンムン)の後ろに、興礼門(フンレムン)、勤政門(クンジョンムン)、勤政殿が並んで姿を現した。今回復元された光化門は史料や写真などに基づき、高宗2年(1865)の再建当時の木造構造で復元された。

二、朝鮮の土となった日本人・浅川巧 ―不朽の名著『朝鮮陶磁名考』

ソウル市郊外の忘憂里洞の共同墓地に李朝の壺形の石碑がある。ハングルで「朝鮮の土になった日本人」と書いてあるという。浅川巧の功徳碑である。浅川巧(1891~1931)は先出の彫刻家伯教の弟である。

 

大正3年(1914年)24歳の時、朝鮮渡り、林業試験場に奉職する。日本は併合前から、朝鮮半島の禿山に植林する事業に努めていた。彼は大正14年(1920年)「朝鮮山林会報」に「萩の研究」を発表する。この研究は朝鮮の禿山の植栽にはミヤマハギが最も適していることを証明したものであった。その後も多数の論文を発表している。柳宗悦は、「結局山林を自然に返せ、それより道はないのだ」というそんな彼の理論を巧流の哲学だと言っている。

 

「俺は神様に金は貯めませんとと誓った」と言って、僅かな収入から朝鮮の学生に奨学金を与え、憐れな物売りが来れば、高く買ったりしので、彼の家の勝手口にはそうした人達の志が届けられた。妻子には「人にものをあげたなどどと言ってはいけない」と常に戒めていたという。

彼は朝鮮の民芸や美術に関する著書や論文を残している。先出の『朝鮮陶磁名考』は彼の死後発刊されたものである。その他『朝鮮の膳』などがある。

 

彼には朝鮮の山を青くする使命もあり、昭和6年2月から全土に講演旅行に出る。しかし無理が重なったのか3月15日に帰宅後、急性肺炎にかかってしまい、4月2日42歳で急逝する。彼の死を聞いた朝鮮人は群れをなして悔みに現れ、亡骸の側で慟哭したという。

 

妻と子は敗戦と共に朝鮮を引き上げてくることになる。解放後の解放後の朝鮮の反日感情は激しいものがあり日本人の建てた碑や墓もことごとく壊された。あれほど朝鮮人に愛された巧の例外ではなかった。朝鮮時代浅川家と懇意にしていた画家の加藤松林人は韓国旅行の折に、かつての試験場を訪れた。元同僚の金二万の案内で亡憂里の巧の墓に墓参しようとしたのだが、墓の位置がわからない。

 

その顛末を試験場の李承潤場長は、浅川巧の功績と人徳を知って感激したという。そこで多くの人員を募り、やっと破壊されて土に埋まっていた墓石と伯教設計の李朝壺形の石碑を発見する。そして早速その墓石と石碑を修復して修復祭葬を行ったのである。昭和41年(1996年)には金二万と李承潤場長の呼びかけで林業試験場の職員一同の共同募金で「浅川巧功徳之墓」が建立されたのである。

三、在日朝鮮人を救った大河常吉警察所長 ―関東大震災の影に咲く秘話

大正12年(1923年)9月1日正午0時2分、関東地方南部をマグネチュード7.9の大地震が発生する。震源に近い神奈川県では、いっそう激震で、各所から出火、折からの10メートルを越す南風で瞬く間に火の海となった。死者が9万人を超える大災害となる。いわゆる関東大震災である。

 

この大惨事をさらに悲惨なものにしたのが流言飛語だった。きかっけは刑務所の「囚人」が脱走して強盗を働いている、いうのを「鮮人」が、と聞き違えたものが、横浜では「鮮人が来襲して投毒、放火、強盗、強姦する」という流言になり、全市に広がった。自警団が組織され「朝鮮人刈り」と称して朝鮮人と見れば襲撃した。当時在日朝鮮人は約8万人いたが善良な朝鮮人たちは危険にさらされた。東京府下の一部は厳戒令がひかれ、警察は朝鮮人保護令出した。横浜鶴見署管内でも9月2日朝から流言蜚語が広がり、瓶を持った中国人を自警団が鶴見署に連行してきた。自警団は一様に「瓶の中には毒が入ってる」という。所長が中身を飲んでみるとただの醤油であった。

 

9月3日にはさらに朝鮮人への不信感は異常なまでに高まった。鶴見署は助けを求めてくる朝鮮人を一時総持寺に保護したのであるが、大川所長は暴徒化した市民に「朝鮮人はみんな良民である。警察があずかるのだから心配するな」とさとすが、暴民は警察署を囲み、「朝鮮人に味方する警察署など叩き壊せ」と警察署を取り囲む。所長も意を決して「もし逃げたら、大川がみなの前で腹を切ってお詫びをする」と断固たる態度で対処すると、民衆も落ち着きを取り戻すことになった。

 

内務省(刑事事件関係)の調べでは死者が朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人。吉野作造の作った「朝鮮罹患同胞慰問班」の調査では殺害された朝鮮人は2613人にのぼるという。中国公使館の調査では中国人行方不明者1670人という。東漸寺には「在日朝鮮人統一民主戦線鶴見委員会」建立の顕彰碑がある。

四、韓国の文化勲章を受賞した枡富安左衛門 ―教育に生涯を捧げたキリスト教徒

枡富安左衛門は明治12年(1880年)福岡県門司市の醤油醸造業の営む家の長男として生まれる。明治32年に志願兵として上京して、35年に予備役陸軍3等主計になる。日露戦争勃発時には第12師団経理部付けで出仕する。朝鮮半島全羅北道の肥沃な大地を見て、農場経営をする決心をして、39年に全羅道で農場経営をはじめる。メジスト教会から洗礼を受けている、照子婦人とは明治40年に結婚、43年には自身も洗礼を受けた。

 

本格的に神学を学びたいと大正3年から神戸の神学校に3年間学んだ彼は、朝鮮に伝道するためには朝鮮人の牧師育成が必要であると、朝鮮人3人を呼び寄せて一緒に入学させるのである。そして月に1回祈祷会を開いている。彼には東洋平和のためには朝鮮の真の独立が不可欠であるとの持論があり、祈祷会では「神の栄光が地上に現れるように」、「朝鮮の人々が救われるように」などを成就させるために20年以上続いたのである。

 

大正6年には私立吾山高等学堂を設立、8年には学校法人許可がおりて私立吾山高等普通高校になる。第1次大戦後の世界不況の煽りを受けて学校経営が危うくなると、枡富の薫陶を受けた教師たちが立ち上がり30万円を超える募金が集まった。その資金で高敞邑に移転して高敞高等普通学校となった。高敞高等普通学校では独立運動で退学になった生徒を積極的に受け入れていたので、「民族運動揺籃の地」として有名になる。

 

そして昭和9年病に倒れこの世を去る。享年54歳。しかし彼の生徒たちは遺徳を偲び慰霊祭を行ったり、顕彰保を建立したりしていた。平成6年(1994年)ちょうど60年忌がソウル永世教会で盛大に挙行されたとき、叙勲を望む声が強まった。反日感情がまだまだ残る韓国で併合時代の日本人に叙勲というのはなかなか難事ですが、彼の生徒たちは教育部を熱心に説得する。平成7年(1995年)12月政府から叙勲の知らせが入り、15日式典が行われ、国民勲章牡丹章が授与された。

五、孤児養育に生涯を捧げた曽田嘉伊智翁 ―国交樹立前に韓国から文化勲章を贈られた日本人

曽田嘉伊智は1867年山口県に生まれる。明治38年に韓国に渡り、京城のYMCAの英語教師となる。大正8年(1919年)の3・1独立運動では逮捕拘束された運動家の救護・釈放に奔走する。翌10年に鎌倉保育園(孤児院)の京城支部長になり、孤児の救済を始める。以後20年間述べ1000人の孤児を育てることになり、当時から孤児の父と呼ばれた。昭和22年に一旦帰国したが、朝鮮戦争のため帰国できなくなる。

 

李承晩さん、あなたは日本のこの白ヒゲのおじいさんことを覚えておられるでしょうか。増田嘉伊智さんといい、あなたと50年以上もむかし、ソウルの韓国キリスト教青年会で知り合ったそうですが、このひとがいま、なんとかして、あなたの国、韓国に「帰りたい」とと熱願しているのです。

この昭和35年のこの朝日新聞の記事がきっかけで反日感情渦巻く韓国に昭和36年、永住を認められるて帰国することになる。12年ぶりである。鎌倉保育園は永楽保隣院に名前を変えていたが、孤児たちの歌声で迎えられる。

 

嘉伊智翁は翌年、3月27日永楽院保隣院の一室で息を引き取る。96歳であった。葬儀には2000人が参列して死を悼んだ。韓国政府は嘉伊智翁に文化勲章を贈った。

六、「三十八度線のマリア」望月カズ ―第一回光復賞を授与された愛の理髪師

望月カズは133人の孤児の養育に生涯を捧げ「三十八度線のマリア」と讃えられている。カズは昭和2年杉並に生まれ4歳で満州にわたるが、2年後母親を失う。農奴として転売されながら大陸を放浪する。終戦と共に日本に帰国するが、再び満州へ渡ろうとするが、三十八度線を超えられずソウルの留まることになる。ここで朝鮮戦争に巻き込まれて一人の男の子を助ける。以後カズは多くの孤児を理髪業や軍手製造、豆炭売り、時には血を売りながら子供たちを育ててゆく。

 

その後そんな数のことを知った日本人や在日韓国人が援助をするようになる。カズの預かる孤児の中には在韓日本人も多くいたという。昭和38年理髪師の免許を習得、「愛の理髪師」と呼ばれる。翌年には「この子らを見捨てられない」を出版して大きな反響を呼び、これが原作となって「この地にあの星となって」という韓国映画が制作される。(邦題は愛は国境を超えて)

 

昭和42年、韓国独立記念日に日本人としては異例中の異例、第1回光復賞が授与される。昭和46年には朴大統領から韓国名誉勲章・冬柏章が贈られ、昭和51年には祖国日本で吉川英治文化賞を受賞した。

 

 カズは人生の大半を韓国で過ごしてきたが、富士さんの見えるところに葬られたいという希望があった。昭和58年、56歳でソウルの自宅で亡くなる。ソウル郊外に埋葬される。同年天皇陛下から勲5等宝冠章が授与される。昭和60年多くの支援者の尽力で静岡県瑞林寺墓地の富士山を正面に望む所に墓を建立して分骨式が挙行されるのである。

七、韓国障害児の母・李方子殿下 ―朝鮮王家に嫁がれた女王殿下

李氏朝鮮最後の皇太子に嫁いだのは日本人女性だった。李王世子垠殿下に嫁がれて李方子殿下となられた。日鮮融和を進める日韓両国の礎となるための婚約であった。

 

昭和20年日本の敗戦で国へ帰る決意をお持ちであった、李朝皇太子垠殿下だったのだが李承晩政権は冷遇したのである。そのうち日本で臣籍降下がおこなわれ、皇族の資格も失うのである。失意のうち昭和34年についに脳血栓でお倒れになる。軍事クーデターで政権を掌握した朴正煕が手をさしのべたのは2年後であった。昭和38年(1963年)、垠殿下、方子妃殿下は帰国するのである。垠殿下は56年目の帰国であったが、意識なくベッドで横たわったままであった。垠殿下は1970年(昭和45年)70歳で昇天された。

 

方子妃殿下は帰国直後から積極的に福祉事業の活動を始める。批難罵倒を浴びながらも聾唖・小児マヒの子供のための「明暉園」と精神薄弱児施設「慈恵学校」という2つの身障者施設を設立される。妃殿下は施設を運営費を賄うために世界中を奔走される。80歳を越えられてもなおお続けになられたという。

 

主人が生きていたときは、韓国と日本の二つの祖国の間で煩悶を感じたこともありましたが、主人が亡くなってからは、もうはっきりと私の祖国は韓国であると思います。

 

妃殿下はこう述べられておられる。

 

昭和53年赤坂プリンスで「李方子妃殿下喜寿を祝う会」が催された。音楽演奏は自衛隊音楽隊だ。ある男性が突然マイクを取り「蛍の光の演奏を軍艦マーチに変更するとは軍国主義そのものだ」と叫んだ。妃殿下は静かにマイクを取り、

 

「皆様、まことにご多忙のところ、私のために多くの方が激励下さり、本当に感謝しています。ところで、本日の演奏の計画によりますと、最後の演奏は『蛍の光』になっております。それを取り止め『軍艦マーチ』にして頂きたいのです。私も軍人の娘です。私はこれから韓国に帰って本当の戦いが、これからはじまるのです。この私を激励くださるのでしたら、感傷的な『蛍の光』では勇気が出ません」

 

1998年(平成元年)方子妃殿下は87歳で逝去された。

 

八、市民葬で送られた日本女性・田内千鶴子 ―日韓国交回復三〇周年記念映画「愛の黙示録」の主人公が訴えたこと

平成7年、日韓国交回復三〇周年記念映画として両国制作による映画「愛の黙示録」が公開された。日韓併合時代から戦後30年間にかけて、韓国の木浦で約3000人の孤児達の母親として生きた田内千鶴子の一生を描いた作品である。

 

千鶴子は(大正元年)1911年に高知県若松市で生まれ、父は朝鮮総督府の官吏であったが、20歳の時死別する。千鶴子は母と二人でそのまま朝鮮で生活をする。たまたまオルガンを習っていた生徒から、「木浦共生園」で奉仕をしないかとさせわて園をたずねる。尹致浩はその木浦共生園の園長であった。尹致浩は「乞食大将」と呼ばれ尊敬されていた。昭和13年(1938年)千鶴子は尹致浩と結婚する。

 

昭和20年、千鶴子も日本の敗戦で多くの日本人妻の様に居場所を失う。村民は親日家であるという理由で夫、尹致浩を襲ってきた。子供たちは千鶴子の前に立ちはだかって夫妻を守ろうとしたので村民も諦めて引き上げた。

 

しかし昭和25年(1950年)の朝鮮戦争で木浦は共産軍に占領される。運動場に集められ人民裁判を開いて園長夫妻を反動分子、親日反逆者と吊るし上げた。尹致浩は人民委員長を承諾させられ、「妻を処刑したほうがいいと思うものは手をあげてください」という。誰も手を上げるものはいなかった。「もし私の妻が日本人であるというだけで死刑にすべきだとお考えの方がいたら遠慮なく手を上げていただきたい」彼の毅然とした態度に村民は感動して拍手を贈ったのであった。一旦共産軍は引き上げるが園には孤児が溢れ返ることになる。夫尹致浩は食料調達のため出かけたきり消息がつかめなくなる。

 

昭和38年韓国政府から千鶴子に第18回光復節文化勲章国民章が授与される。昭和39年千鶴子は日本へ何十年ぶりかで帰国することになる。この日本帰国から韓国へ戻ってから千鶴子は体調を崩した、肺癌であった。昭和42年、大坂の博愛社との姉妹提携を結ぶ。その結縁式のあと千鶴子は再び倒れるのである。ソウルの病院に入院するが「梅干が食べたい」と言いながら意識を失う。昭和43年10月30日の誕生日に57歳で亡くなるのである。葬儀は市民葬で行われた。3万人の市民が参加したという。

 

紹介した日本人たち併合時代いずれも朝鮮人以上に当朝鮮を愛し、朝鮮と朝鮮人のために尽力した日本人ばかりだ。共通して言えることは日本の敗戦と同時に日本人であるだけで大変な困難を経験した。

 

現在韓国は日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法(2004年公布)や親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(2005年公布)によって併合当時の親日家を未だ卑しめている。このような行為は、本当に愚かだであるし、このような野蛮なことがこの21世紀に堂々とおこなられている民主主義国家というのはいかなる民族であろうかと世界中が軽蔑の眼で見ていると思う。