第四部 日韓併合それぞれの苦難 七、大韓民族独立運動の父・安昌浩

独立自尊・国力培養を訴えた独立運動の指導者

島山安昌浩は"大韓民族独立運動の父"と呼ばれ、日本で言えば吉田松陰か福沢諭吉に匹敵する存在と言える。彼は、「日本に併合されたのは韓国に力がなかったからだ。反日武装テロによって民力を消耗するよりも、国家・民族のために己を捨て、空理空論に走らず実践できる人材を育成すべきだ」と考え、多彩な民族独立運動を展開した。

彼は、

  1. 韓国で最初の男女共学の私学「斬新学校」を始め、三つの近代的学校を設立した教育運動家
  2. 韓国最初の青年団体「青年学友会」や修養団体「興士団」を設立した青年運動指導者
  3. 韓国で最初の株式会社を設立して、出版なども手掛けた産業振興の実践者
  4. 秘密組織「新民会」を結成、上海大韓民国臨時政府の閣僚として独立運動グループの大同団結を尽くし、金九、呂運亨などのリーダーを育成、満州地域に根拠地を建設を図った独立運動家
  5. アメリカを中心にロシアに及ぶ韓国人連携団体をつくり、生活改善運動を進めた在外韓国人指導者

このような多彩な顔を持ち尚且つ、日本に対し終始厳しい態度でいたものの、「ウエノム(倭奴)」という日本人を侮蔑した言葉を使わず、「イルボンサルム(日本の方)」と言って、日本人には一定の敬意を忘れない人格者であった。

 

独立協会の挫折から学んだこと

彼が16歳の時日清戦争が勃発して、国土が荒廃するのを目の当たりにしながら、安は「外国がかってに我が国土に入って我が物に振舞うのは我国の国力がないためだ」と悟るのである。戦争は日本が勝利して、下関条約で日本が清国に朝鮮の独立を承認させる形で大韓帝国は外見上独立国の体面を整えた。

 

しかし今度はロシアが南化してくると、日本とロシアを牽制するため、高宗皇帝は相変わらず、以夷制夷(侵略者をもって侵略者を制す)で、英米仏を引き入れ牽制しようとする。

 

一方破綻した財政を売官売爵で支えるため民主は無法な課税で辛酸を嘗める事になった。そんな時期にアメリカに亡命していた徐載弼が帰国して、1996年独立協会を組織する。19歳の安も平壌で独立協会に参加する。結局この運動は2年で韓国の守旧派から弾圧を受けて、徐載弼はアメリカに追放されてしまう。この体験は安昌浩に貴重な教訓を与えた。彼はその後よく次のように力説した。

 

「日清戦争の結果、なぜ韓国は独立できななかったのか。そうしてそれを護れなかったのか。欧州大戦も良い機会ではなかったか。私たちはいくつかの機会をものにするだけの力がなかったからではないか。私たちはこれを痛恨に思い、これから私たち各自が己を教育し、次に来るべき機会を逃がさないように準備しておかなければならない」。

 

力のなさが独立のチャンスを生かすことができなかったという反省が安昌浩の独立運動のスタイルを決定するのである。24歳の安昌浩はアメリカにわたり1905年に共立協会を組織するが、1907年祖国が亡国の危機に瀕しているのを座視できず帰国する。彼は各地を講演して政府の腐敗と堕落を糾弾しながら、その時にでも無気力な国民を嘆き悲しみ、独立を維持できるだけの力を養いおうと訴えたのである。

 

しかし当時の主流であった守旧派を打倒して政権を掌握し政治を革新すべきだという急進派には、民力を培養するという主張を「百年河清を待つ」に等しいと批判されるのである。安はそれまでの甲申事変の金玉均や徐載弼の独立協会もそうであったが、緊急を論じて何も方策せず無鉄砲に旗揚げして、失敗するという繰り返しがこれまでの独立運動ではなかったかと、その教訓をふまえて主張していたのである。 

伊藤博文と安昌浩の会談

伊藤総監は安の主張に注目して会談を求めた。内容の詳細な記録はないが、安昌浩が漏らしたところによれば、伊藤総監は次のようなことを言ったという。

 

「自分の理想として3つの目標がある。1つは日本を列強と互角にすること、2つ目は韓国をそうすること、3つ目は清国を同様にすること。日本は目的を達しつつあるが、日本だけでは列強のアジア侵略を防げない。韓国と清国を日本くらいの力量にして友好関係の強い三国が連携しなければならない」

 

と伊藤総監は安昌浩に協力を求めた。

 

これに対して安昌浩はこのように返答した。

 

「三国鼎立による親善が東洋平和の基礎だとする点は同感である。また、あなたがあなたの祖国を革新したことは慶賀に値する。また韓国を貴国のように愛し、援助しようとする好意に対しても深く深謝する。しかし韓国を最もよく助ける方法があるが、おわかりでしょうか。それは日本を立派に改革したのがに日本人であったように韓国を韓国人に革新させることである。明治維新をアメリカ人がきてやらせたとしたらあなたはどう思うか。私は明治維新は成就しなかったと信じる」

 

と愛国者らしく伊藤総監の協力要請を断ったのである。

 

事業家であり、教育者であった安昌浩

彼は伊藤総監とあって「今の韓国には伊藤と張り合える人物はいない」と痛感した。そこで秘密結社新民会を結成する。そして事業を次々と興すのである。平壌大成学校、平壌馬山洞の磁器会社、平壌・京城・大邱の太極書館などである。彼は韓国に洪水のように流れこむ日本製品で市場が独占されていることに危惧を抱き磁器会社を設立するが、政府当局者も独立運動家も、市場が独占されることが何を意味するか分かっていなかったのである。独立は政治だけではできない、経済力も必要で、国力増強には工業振興が不可欠だと彼は分かっていたのである。

 

幻の安昌浩内閣

当時の韓国政府はもはや意思決定機関としての機能を喪失していた。皇帝は内閣と元老に責任を押し付け、内閣と元老は専制君主である皇帝の裁下なくして当然何も決められない。日本に憎まれないよう、韓国民から汚名を着せられないようにと御身大事に逃れようとするのが韓国高官の心積もりであった。一方民間は斧を担いで上訴するか、殉国的に自決するか、日本要人や親日的韓国人をテロすることだった。伊藤博文が暗殺されると、寺内正毅が韓国総監として赴任する。寺内総監は崔錫夏を呼びこう述べる。

 

「日本の本意は韓国の独立を尊重し、仲良い隣国を作ることにある。しかし韓国皇帝と政府が常に日本との約束を守らず、日本に対し陰謀を計り、また韓国の内政も予定通り改善されない。このまま進めば必ず第三国の干渉を引き入れることになり、日本と東洋の平和に禍根がおよよぼされることを憂慮している。したがって日本としては重大な決意をしなければならないが、万一韓国人が自ら進んで日本に対する条約の信義を守るならばそれ以上の幸運はない。そこで安昌浩内閣を組織して日本と協力しないか」

 

崔錫夏は早速、安昌浩ら民間の志士達に話を持ちかけるが、議論の末、安昌浩はこの提案を拒否する。理由として、

  • 世界の批難を少なくして、韓国併合を併合しようとしているのではないか。
  • 併合が民意であるという口実のために、国民の信頼を得られる民間の志士を政権につけるという罠である。
  • 自ら勝ち取ったのではなく、日本から与えれた政権でどうやって日本に抵抗できるのか。
  • いずれ親日貴族が日本に諂い、政権を奪回しようとすrだろう。そのとき民間政権が排除される危険性がある。

国家存亡が眼前に迫ったときにただ手を拱いて傍観するのか!と会議の出席者は安昌浩の詰め寄る。安昌浩は悲痛な声で最後の決断をする。

 

「我々愛国の士に残された道はただ一つだけである。それは涙を呑んで力を養い、将来に準備することである。我々が亡国の悲劇に見舞われるのは我々に力がないからである。力がないまま失ったものを、力がないままで得られることはできない。国内にいられるものは国内で、国内にいることができないものは国外で修養・団結、教育・産業によって民力を培養することが祖国を回復する唯一の道である」

 

と落涙しながら訴えた。満座も感極まって涙をし亡国の道を選んだのである。安昌浩が青島に亡命して直後の、1910年8月29日大韓帝国は日本に併合されることになる。

 

上海大韓民国臨時政府

彼は「光復は自分がやればできる」と固く信じ、亡国の報に接しても慟哭するが、失望はしなかった。彼は悲報を聞きこのように述べた。

 

「祖国滅亡の責を李完用一人に負わせてはいけない。自分もまたその責任者である。亡国の責を日本に転嫁したり、李完用に帰したり、両班、儒林に負わし、民族運動者になすりつけ、自分は蚊帳の外を振舞うのは卑怯者がすることだ。韓国が力ある国だったら、韓民族が力ある国民だったら、日本がどうして飛び掛ることができようか。李完用が売国的条約に署名できようか。私たちは李完用を責める罪で、自分自身を罰すべきである。韓民族が亡国の責を自分にあると自覚するとき光復への道が脈打ち始めるのである。」

 

安昌浩は国力の無さが、そしてその自覚の無さが、亡国を招聘したと言っている。彼は団結こそ光復への第一歩だと自覚し、力を蓄え好機到来の折に力を発揮できるよう準備しようと訴えたのである。しかし李東輝らはすぐにでも独立運動を起こそうと主張し、いつの時代も威勢の良い意見が支持されるので、やむなく安昌浩はアメリカに渡ることになる。アメリカで安は「興士団」を結成して、天下国家のため、一身利害苦楽、生死栄辱を超越した「士」を養成する。

 

1919年ウイルソン大統領の民族自決主義は韓国で3・1独立運動を呼び、上海でも4月10日、大韓民国臨時政府樹立を発表する。李承晩を国家元首とする臨時政府に安昌浩は内務総長に就任するが、路線の対立や派閥抗争で政府内はガタガタであったという。結局、両班や中央(京畿道と忠清道)出身でない安は孤立し1921年閣僚を辞任することになる。

 

その後彼は満州にわたり運動を展開するが、1931年の満州事変勃発でそれも頓挫する。翌1932年韓国人尹奉吉が、臨時政府の金九の差し金で、白川義則大将を爆殺する事件が起こり、金九の上司として安も逮捕されることになる。1935年(昭和10年)懲役を終えて再び民族運動を再開した安は、友人同胞の意見を聞いて回る。

 

皆一様に「韓国には人物がいないのか」と慨嘆する。そのたび彼はこう反論している。「君は国を愛しているか。それならばまず君が健全な人格となれ。 私たちの中に人材がいないのは人材になろうと心に抱き努力する人がいないからである。人材がいないと嘆いているその人自身がなぜ人材になる勉強をしないでいるのか!」

 

福沢は「一身独立して一国独立す」と言った。安昌浩も「一身を独立させ、国を失った韓国を独立させよう」と訴えたのである。

1937年、朝鮮総督府から再逮捕された安昌浩は検事から「お前は民族運動をやめるつもりはないのか」と質問されて、「私はご飯を食べるのも民族の独立ため、寝るのも民族の独立ためである。これは私の命が消える時まで変わりがないのだ」と答えたという。翌1938年3月10日、安昌浩はは病死する。享年60歳。

 

島山公園の安昌浩の碑

韓国の真の民族独立派「興士団」著書ではこの稿の最後に興士団の元副会長で元KSB会長の徐英勲氏との対談を紹介している。

 

近世以来の受難の歴史の中で、島山先生のような偉大な指導者がいることを在日の人が知らないことを憂いて、この本を発刊しました。

 

日本には吉田松陰や福沢諭吉ら先覚者が出て明治維新を成功させて独立を守り抜いた。しかし、韓国はあまり形式にこだわって改革を進めることができず、国を弱くしてしまった。

 

島山先生は吉田松陰に似ていて、古い封建体制を改造して国の力を強くしようとしました。責任は私たち自身にあるのであり、虚偽が国を滅ぼしたのであり、日本を怨む暇があるならば、自らの実力向上に務めるべきであると島山先生は訴えていました。

 

だから暴力に訴えるとか、日本人を怨むとかはしなかった。お互い、日本、韓国、中国がそれぞれに立派になって、それぞれ東洋精神をもって世界に貢献しようと、島山先生は訴えておられたのです。その島山先生の精神に基づいて、アジアの文明の主人公である私たちが世界のために共に尽くそうではありませんか。

 

このスピーチに感動を受けたのはいうまでもありませんと、著者は述べている。日本人が知らないだけで、韓国には安昌浩の精神を受け継ぎ、不毛な過去非難はやめて、共にアジアの将来を語りたい、と願っているグループが韓国には存在しているのである。日韓友好のためにも安昌浩の自主独立の精神が日韓共通の精神的財産になることを願うばかりである、と締めくくっている。