第四部 日韓併合それぞれの苦難 五、3・1事件と2・8事件

一国が独立することの意味を問う 独立運動の気運

韓国の四大節は3・1節(3月1日)、制憲節(憲法制定の日、7月17日)、光復節(日本の敗戦で光が復ってきた日、8月15日)、開天節(檀君による建国記念日、10月3日)である。日本との関係で見れば3・1節と光復節は微妙な影を落としている。昭和57年の教科書問題は3・1事件を「暴動」と記述したことから起こっている。

併合後、韓国の独立運動家は海外に亡命して、上海を中心に活動を続けた。呂運亨は各国に散らばった活動家たちと連絡を取っていた。1914年第1次世界大戦が勃発すると、アメリカ大統領ウイルソンは民族自決主義を提唱する。

 

また1917年にロシア革命が起こると、各国の独立主義者たちの夢は現実味を帯びてくる。米国では李承晩や安昌浩らの在米朝鮮人が活動しており、呂が日本に立ち寄った時、その報告を伝え、日本国内に留学中の朝鮮人を激励している。

 

1918年に戸山原練兵場でおこなわれた留学生の運動会では、檀君や乙支文徳、李舜臣や烈女・論介を登場させて気勢を上げた。この時期に度々日本の留学生たちは弁論大会を開催している。その中での彼らの主張を見てみる。

 

我々の同胞の中には、米国大統領の宣言を尊重して、民族自決主義、正義人道、自由平等を口にして得々としている者があるが、誤れるも甚だしい。確かに個人の間では正義人道とか自由平等を対等に主張できるが、国家や団体になると、実力なくして利益を受けられるものではない。要するに我々は自分の実力を養成して、正義人道を高唱すべきである。国権を回復するのに、他国を頼ってはならない。我々の間から犠牲を出し、血を流す覚悟がなければならない

 

この他、新羅の忠臣・朴堤上を回想してその志を継ぐのだ、という内容のものもあった。彼らの独立への熱い思いが感じられる。

 

2・8事件と3・1事件

大正8年(1919年)2月8日、李光洙や張徳秀、白寛洙らが神田の基督教青年会館(YMCA)で、表向きは「朝鮮留学生学友総会」としたが、「朝鮮青年独立団結成」が開催された。そこで緊急動議が提案され、独立宣言文が朗読された。決議文が読み終わると同時に一斉検挙されたのである。逮捕者は29名だったが、独立宣言書に署名した11名のうちの9名を除いて釈放される。9名が起訴されたが、その弁護を衆議院議員を7期、副議長を務めた花井卓蔵や布施辰治らが無報酬で弁護を買って出たのである。

 

花井は「学生の身分で、自分の祖国の独立を叫ぶのが、どうして日本の法律の内乱罪になるというのか。もし日本青年が同じ立場に追い込まれたら、もっと激しい手段で独立運動を起こすであろう。民族自決の思潮が世界的に充満している情勢に照らして、留学生の主張は正当であり、罰することはできない」と弁護したのである。結果内乱罪ではなく、文書無断配布の出版法第26条の罪で、最高9ヶ月の判決が下った。

 

現代の韓国人も日本人も祖国の独立を求めた愛国者の心情に感動して無償で弁護した日本人がいたことを忘れてはいけない。この2・8事件が半島へ波及して3・1事件となるのである。

 

併合から8年6ヶ月、寺内初代統監の訓示が生かされず、朝鮮に居留する日本人は、朝鮮人を蔑視して、朝鮮人の間で不満が鬱積していた。そのような情勢下で2つの事件が起こる。1つは英親王・李垠殿下と梨本宮方子妃の婚約発表と高宗皇帝の急死である。英親王には、日韓保護条約に抗議して自刃した閔泳煥の姪にあたる閔甲完という婚約者がいた。血統を尊ぶ朝鮮民族にとっては屈辱的な婚約に映った。結婚の日取りは1月25日と決められた。

 

その4日前に1月21日に皇帝高宗が急死する。国民の間では「結婚に反対した抗議の自殺だ」、「日本人にヒ素を飲まされた毒殺だ」という噂が広がってゆく。このような世論状況で3・1独立運動が勃発するのである。朝鮮でも独立宣言集会の準備が、普成専門学校長(高麗大学)崔燐が中心となり進められ、天道教最高実力者孫秉熙を代表に、宣言文は文学者の崔南善に依頼した。

 

高宗の死によって英親王と方子妃の婚儀は延期のなり、国葬が3月3日と発表された。3日では不敬と考えて、2日が日曜のためキリスト教関係者が出席できないので、1日午後2時、場所はかつて王家の守護寺があった、バゴダ公園と決まる。宣言書は天道教、キリスト教、仏教のそれぞれ信徒2万1千枚が配布された。

 

3月1日には署名した33人がパゴダ公園に集まり、他の参加者と共に宣言文を朗読し、非暴力,無抵抗による平和的示威を呼びかける手筈だった。しかし正午を過ぎるころから、公園に学生ら群衆が集まり始め、殺気だった雰囲気となっていた。

 

孫秉熙らは公園では犠牲者が出ることになると配慮して29人(4人欠席)で料亭(泰和館)の2階に移動した。2時になると仏教会代表韓龍雲が宣言文を読み上げ終了すると孫秉熙代表の音頭で朝鮮独立万歳と唱和した。孫秉熙代表は総督府に電話をして逮捕を促た。しかし彼らが憲兵隊に連行されたことがパゴダ公園に伝わると群集は激昂して宣言文が読み上げられた。

 

おりから高宗の国葬のために上京していた白い喪服の弔問客も加わり「万歳マンセー」デモは、京城だけで述べ50万人に達したと云われている。運動は全国に広がり地方では、警察署、役場、小学校の破壊行為が行われ、放火、投石、暴行、惨殺が横行して不信感が不信感を呼んだ。

 

憲兵、警察は治安維持のため弾圧に奔走して、多くの犠牲者が出ることになる。犠牲者の数を朝鮮総督府作成と朴移植著の「独立運動の血史」で比較してみるが、(内は独立運動の血史)参加者106万人(203万人)、死者553人(7509人)、負傷者1409人(15961人)と大きな開きがある。現在の韓国日本の教科書の記述は概ね「独立運動の血史」に依拠しているようであると著者は指摘している。

 

独立宣言文の要旨はこのようになる。

 

朝鮮は有史以来初めて異民族に支配され、生存権が奪われ、民族の尊厳と栄光が毀損した。日本に対して恨み咎める暇はない。自己の建設あるのみである。日韓を正常な状態に戻したいのである。日本が朝鮮を併合したために、4億のシナ人が日本に猜疑心を持った。日本に東洋の平和を守る重責を全うせねばならない。世界は武力の時代が去って、道義の時代がやってきた。自由思想と民族独立の風潮の中に民族的精華を発揮しよう。

 

著者はこの宣言文の署名に起草した崔南善がないことを指摘して、起草者崔南善の態度に疑義を呈している。そして最後に戦後アメリカ軍の駐留を許し、精神的には自虐的に謝罪を続ける日本人に、当時の韓国人のような愛国者はいないのかと問いかけている。