第七部 かかる韓国人ありき[戦後編] 六、戦前・戦中・戦後、日韓の友好に尽くした朴春琴

昭和7年と昭和12年、東京府4区から出馬して、衆議院議員に当選した朝鮮人がいた。朴春琴である。当時の日本は「一視同仁」の精神に基づき、戰前在住していた朝鮮人にも国政参加の選挙権を付与していた。

朴春琴は1891年慶尚南道生まれ。十代で日本にわたり朝鮮人労働者の救援と厚生を目的とする「相愛会」を設立に参加して、副会長、大阪本部会長、名古屋本部会長を兼任する。この他、日鮮企業株式会社、片倉生命保険株式会社、やまと新聞の顧問になる。

 

彼は創氏改名を拒否した民族主義者であったが、地元深川の日本人にも人気があり、衆議院議員の在職年数は8年11ヶ月にものぼる。同胞支援に尽力した朴春琴だったが、大東亜戦争がはじまるとアジア解放の理想のを掲げた戦争に熱心に協力したのである。

 

次いで作家李光洙や詩人朱耀翰らとともに大義党を結成して党首になる。「我等は半島人がけを相手にする狭義の団体ではない。我々の舞台活動はアジア全域であり、我々のしようとすることは、アジア民族のための政治・社会・文化など広範な事業である」と、日本、中華民国(汪兆銘政権)、満州帝国代表をソウルに招き、日本の戦争目的を再確認して、勝利をおさめるまで積極的に協力するよう訴えた。

 

こして経歴は戦後「親日派」のレッテルを貼られて苦労するが、朴春琴氏の韓国人地位向上の思いは衰えることを知らなかった。1957年(昭和57年)日本で「財団法人日韓文化協会」を設立して、在日韓国人の支援や日韓の文化交流を促進したのである。1973年慶応義塾大学附属病院で生涯を閉じる。享年81歳。