第七部 かかる韓国人ありき[戦後編] 四、北朝鮮・韓国・日本に生きる力道山

日本の英雄から、三国の英雄になった男

現在の北朝鮮にある龍源という村に金信洛は生まれる。後の力道山である。昭和16年(1941年)彼は序の口として番付にその名を載せる。 東十両4枚目のとき日本は敗戦を迎える。その5年後大関昇進を目前に控えた1950年、彼は相撲を廃業する。折しも朝鮮動乱の始まった年である。そして翌年の昭和56年(1951年)、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が調印される中、力道山はプロレスにデビューする。

占領中のアメリカは徹底した言論統制、検閲政策を実施して、民族としての誇りを喚起するような言論・出版を弾圧した。忠臣蔵の上演や出版が禁止されたのは象徴的なことである。神道指令で国家が神社に関わることや武道が禁ぜられた。日本文化を変質させようとしたアメリカは、かわりに自国のサブカルチャーを日本へ導入することを促進した。スクリーン、スピード、スポーツ、セックスという4Sである。その中にプロレスも入っていたのである。

 

金信洛(力道山)は兄恒洛と共に、故郷の龍源でシムルの大会で活躍していたところを二所ノ関部屋の谷町に見いだされるのである。1938年にスカウトされて彼は「日本で横綱になり大金持ちになって家族みんなを幸せにする」というジャパニーズドリームを抱き玄界灘を渡る。そして先にも説明したとおり、大関を目前にして廃業、プロレスラーとしてデビューするのである。次々と白人レスラーを空手チョップでやっつける力道山に日本中が興奮したのは記憶に新しい。しかし朝鮮半島はすでに分断されてしまい、彼は祖国へ帰ることができなくなる。

 

同郷の民がアメリカ兵相手に互角の戦いをしていることで、愛国心を激しく掻き立てて、望郷の念を強くしたであろう。そんな彼を日本人は日本人として疑わなかった。彼も戸籍を手に入れ日本人たろうとした。しかし望郷の念は強まるいっぽうで、彼は故郷への渇望をもたらしていたらしい。

 

1963年、ケネディ大統領が暗殺された2週間後、キャバレーで暗殺される。享年42歳。その前年力道山は韓国の招待で戦後初の朝鮮半島入りをしたさいには、レセプション会場から板門店へ車を走らした。38度線を目の前にして彼は慟哭したという。突如上着を脱ぎ上半身裸で故郷の方へ向かって何か叫んだという。

 

1965年に朴正煕大統領と佐藤栄作首相で日韓基本条約が調印されるが、死の1年前1962年の訪韓は何を意味していいたのであろうか。力道山は1961年に金日成主席の誕生日にロールスロイスを贈っている。在日朝鮮人たちは力道山の言動に注目していたのである。それは彼が「金日成主席は民族の英雄だ」というのか、それとも「朴正煕大統領こそが真の指導者である」といのか、在日朝鮮人たちは彼が朝鮮人であることを知っていたのである。

 

結局彼は日の丸も振らず、太極旗も振らず、ましてや北朝鮮国旗も振ることが出来ずに三国の英雄となった。彼の墓石は池上本門寺(東京都大田区)にあるが、墓碑銘には「力道山は長崎県大村の出身で…」、死してなお日本人であり続けようとしたのである。