第八部 日韓両国民への八つの提言 七、日韓「提携」の歴史にもっと注目しよう

検証・日韓国交回復交渉

日本は国交正常化交渉に当たって、「復興資金提供するが、日韓併合の賠償金名目では支払えない。併合条約は合法的に行われ、かつ諸外国もこれを認め承認した条約である」とした。

当然韓国側は「併合条約は日本が武力で押し付けた条約で無効である」と主張した。我国は当然自己正当化のために「合法」を主張したのではなく、当時は正当な条約とされたものを、あとになって「あれは無効である」などとしては国際秩序が成り立たなくなるので、秩序維持のために国際ルールを厳守したのである。

 

日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)の第2条に、

 

両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

 

とあり、過去はこの時点で保障問題も含め「完全なかつ最終的に解決」される、というのが日韓合意なのである。この条約で日本は無償で3億ドル、長期低利(有償)の借款2億ドル、さらに3億ドルの民間借款提供を行った。

 

基本条約締結までの敬意を振り返ると、大韓民国臨時政府は戦争中対日宣戦布告を行うが、日本も連合国もこれを無視する。

 

1942年4月中華民国政府は米国国務省に大韓民国臨時政府を承認するように要請したが、米国はこれを、

  1. 朝鮮人の独立組織の統一性にかける、
  2. 臨時政府が朝鮮民族の広範な支持を得ているとは思えない

として拒否したばかりか、中華民国政府にこれを承認しないよう要求する。1951年韓国はサンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加を希望したが、連合国は講和会議への出席を認めず、よって日本への賠償請求が出来なかった。戦争を日本と一緒に戦ったのであるから当然といえば当然である。しかしサンフランシスコ講和条約(サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約))第四条には、

 

(a) この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。(国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。)

 

とあり、韓国は1976年12月韓国経済企画院が発行した請求権資金白書でこう記す。

 

韓・日には―中略―領土分離から来る財政的、民事的債権債務だけが残されていたのである。即ち言い換えると、政府対政府の債権債務と民間対民間の間で決済すべき債務が対日財産請求権であるのだ。

 

日韓両国には戦争にともなう賠償請求権は存在しないが、韓国・朝鮮が日本から分離・独立した際に、日本に残された韓国・朝鮮の人々の財産や、徴用その他の給与未払いなどについては、請求できる

 

ということを主張したのである。

 

韓国に残った日本の財産は、韓国が日本に請求している額よりはるかに多いと言われるが、日本側の財産はすべて連合国に没収され、韓国に移譲されている。

 

昭和27年から始まった日韓交渉は当初、個人保証など8項目の対日請求をしたが、交渉の過程でこれらを放棄する方針を打ち出した。この過程で韓国国内の世論は、日韓併合条約は正当だという、日本側の主張を受け入れた朴大統領を売国外交と非難した。

 

日本国内では社会党の強硬な反対(社会党は北朝鮮が半島の正当な政権で、韓国を米国の傀儡政権として認めていなかった)があり、難航したが両国の努力で昭和40年12月17日に締結された。

 

この条約の請求権経済協力協定では、請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と明記されて、日韓会談において韓国側から提出された「韓国の対日請求権要綱」(いわゆる8項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求要綱に関しては、いかなる主張もなしえないことが確認された、としている。

 

金鍾泌氏

1962年(昭和37年)11月12日に金鍾泌氏と大平正芳外務大臣が会談した時、大平外相はぎりぎりの額として8千万ドルを提示した。金鍾泌氏は朴大統領から国家再建に必要な資金8億ドルを引き出すように密命を受けていた。

 

金鍾泌氏から提示を受けた大平正芳外相の様子を金鍾泌氏は「椅子から飛び上がるというのは、文学上の表現かと思っていたが、あの大平さんが本当に30センチも飛び上がった。私もびっくりした」と述懐している。

 

大平外相は1時間近く無言で6億ドルの妥協案を作って、双方合意してその場でメモを作った。このメモが日韓基本条約締結の際の基本となった。当時の日本の外貨準備高は18億ドル。8億ドルの支払いがいかに容易ではなかったことがわかる。

 

この支払には韓国人労働者への未払賃金や慰安婦などへの保障も含まれていた。日本側はそれらを別途直接保障したいと考えていたが、韓国側の主張で韓国政府に一任された。

 

韓国側はこの支援で経済復興を優先するのである。朴大統領はまず、京釜高速道路の建設に着手、浦項総合製鉄所、ソウル地下鉄道、昭陽江ダム、忠州ダム、北坪港ほか、主要都市の上下水道、学校、病院、電話、干拓事業など日本の資金と技術協力が、今日の経済発展の基礎を築いた。韓国はベトナム戦争の特需も加えて「漢江の奇蹟」呼ばれる経済発展を遂げるのである。白書では、

 

今日の結果を基礎として振り返る時、韓・日国国交の正常化は韓国外交史においてもっとも重要で意義のある政策妥協であったと見ることができるであろう。

 

両国政府が戦後の日韓関係をふまえて確認するべきことは、国交回復後、両国民が進めた協力関係を両国指導者の見識のよって反目と衰退の歴史ではなく、協力と発展の歴史を築くことではないだろうか。