第八部 日韓両国民への八つの提言 六、両国の懸案「竹島」問題を深く知ろう

日本の教科書に「竹島」を載せるべきである

平成8年2月韓国の新聞社がソウル市民にアンケートをしたところ、98.6%が竹島(韓国名独島)は韓国領土だと答えている。1980年代始め韓国では「独島我が領土」が大流行した。

【歌詞・日本語訳】

鬱陵島 東南側 航路に沿って200里 孤独な 島ひとつ 鳥たちの故郷

誰がどんなに自分の土地だと言い張っても 独島は我が領土(我が領土)

慶尚北道 鬱陵郡 南面道洞 1番地 東経132 北緯37 平均気温12度 降水量は1300

独島は我が領土(我が領土)

チジュン王 13年 島国 于山国 世宗実録 地理誌 50ページの3行目

ハワイはアメリカ領 対馬は知らないが

独島は我が領土(我が領土)

日露戦争 直後に 持ち主が無い島だと 無理に言い張られて 本当に困って新羅の将軍イサブ 地下で笑ってる

独島は我が領土(我が領土)

竹島が何なの? チュクト(竹島)って何なの? 独島は永遠に独島だろ

で 何で 何でまた言い張るの? 独島は韓国領って知らないの? 檀君お爺さんが怒ったら

お前らはただ見ているだけだろ だからもう言い張るな

鬱陵島 東南側 航路に沿って200里 孤独な 島ひとつ 鳥たちの故郷

誰がどんなに自分の土地だと言い張っても

独島は我が領土(我が領土)

チジュン王 13年 島国 于山国 世宗実録 地理誌 50ページの3行目

ハワイはアメリカ領 対馬は日本領

独島は我が領土(我が領土)

独島は我が領土(我が領土)

独島は我が領土(我が領土)

 

日本に留学してくる韓国の学生はみな独島が韓国領であることを堂々と発言する。一方日本の学生はそんなことがあることも知らない。日本では紛争の原因になっている「竹島」を教えないこと、考えさせないこと、領土というナショナリズムに関わる自己主張しないことが友好の道であると錯覚している。結局韓国学生の言いなりにならざるを得ない。

 

そうした反論もしない日本の学生、いや一般市民を韓国人はどう考えるのだろうか。友好のために反論しないのだと好意をもつはずなどないのである。強烈なナショナリズムを持つ韓国人から見れば、ナショナリズムの希薄な日本人など、同じ気持を共感できないので、友好関係を結ぶ相手にはならないのである。

 

竹島に対する主張は明確で島根県や外務省も正しくこれを伝えている。外務省では、

  • 竹島の認知
  • 竹島の領有
  • 鬱陵島への渡海禁止
  • 竹島の島根県編入
  • 第二次大戦直後の竹島
  • サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
  • 米軍爆撃訓練区域としての竹島
  • 「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
  • 国際司法裁判所への提訴の提案

と丁寧に解説している。

 

竹島の正確な位置は電子国土ポータルにある。また県政広報誌「フォトしまね」やWeb竹島問題研究所HPにも詳しい。韓国の教科書には安龍福のことが出てくるが、竹島問題に詳しいWEBより引用する。

 

韓国側が于山島を獨島(竹島)とする決定的な証拠として、朝鮮漁民・安龍福(アン・ヨンボク)の一連の行動がある。大谷・村川両家が鬱陵島への渡海許可を幕府から受け、同島で鬱陵島経営をしていた時代の1693年、鬱陵島で漁業をしていた米子の大谷家の漁師達は安龍福等と遭遇、領海侵犯の証拠として、安龍福と朴於屯(パク・オトン)の二人を拉致し、日本に連れ帰った。

 

この時、日本側の資料によれば、鬱陵島の近くには40余りの朝鮮人がいたとされる。一方、朝鮮側の文献によると、安龍福と朴於屯が連れ去られたのは、他の仲間は上陸して身を隠匿できたが、二人の下船が遅れたからで、それも日本の漁師達は、刀剣、鳥銃をもって両人を脅したのだという。これは日本側の鬱陵島渡海の目的の一つがトド猟でもあったため、大谷家の漁師達は、出漁の毎度に鳥取藩から鉄砲を拝借していたからである。

 

安龍福と朴於屯は1693年4月17日に捕まり、18日に鬱陵島を出船して4月20日には隠岐島に着き、そこで取調べを受けた後、米子には4月27日に到着している。鳥取藩は幕府に事の顛末(てんまつ)を告げ、幕府は朝鮮との交易が盛んであった対馬藩を通じ、朝鮮側に越境の取締りを厳にするよう要求することになった。 

 

それは日本領として運営していた鬱陵島に、朝鮮人が出現し、日本側とトラブルを起こすようになったからである。日本側の漁具や施設を無断で使い、持ち去る者が出現したのだ。その顛末を述べた『七箇条返答書』には、「兼(かね)て此方より拵え置(こしらえおき)候(そうろう)、諸道具猟舟八艘、見え申さず候」と記されている。鎖国政策が厳格であった当時、幕府の許可を得て鬱陵島に渡って来ているので、この現実は黙示することが出来なかったのであろう。そこで彼らは朝鮮漁民に遭遇した時、領海侵犯の証拠として拉致し、鳥取藩に朝鮮側の不法行為を訴えたのである。

 

この拉致事件が起きた翌1694年、日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時、1481年に編纂された『東国輿地勝覧』の「弊邦江原道蔚珍縣に属島有り、鬱陵と曰う。本縣の東の海中に在り(中略)、本島峰巒(みねみね)の樹木、陸地より歴々と望見す」を引用して、鬱陵島は陸地より歴々と望見する事が出来ると言い、李朝は徳川幕府に鬱陵島から手を引くように伝えた。

 

上記を踏まえて戦後の韓国の発言を聞いて頂きたい。1954年9月25日付の「獨島領有に関する1954年2月10日付亜2第15號、日本外務省の覚え書きで日本政府が取った見解を反駁(はんばく)する大韓民国政府の見解」と題する韓国政府の公式見解では、上記に説明した『東国輿地勝覧』の文註と『世宗実録地理志』の文註から、「上記引用文の如く、于山島と武陵島(鬱陵島)の二島は、蔚珍縣の正東側の海に位置する別島である。さらにこの二島は互いに離れているが、それ程遠くないため、天気が良いと互いに望見することが出来る」と捏造解釈した。

 

戦後、竹島問題が日韓の争点となった際、韓国側は、『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を鬱陵島から見た竹島の記述とし、歴史的にも竹島は韓国領と主張していたが、1694年日本と朝鮮との間で鬱陵島の帰属が問題となった時には、その同じ『東国輿地勝覧』の「歴々と見える」を、陸地から鬱陵島が見えると解釈していた。この「歴々と見える」は、鬱陵島問題の時には鬱陵島を、竹島問題になると竹島の領有を証明する根拠にされていたのである。したがって、韓国側はとんでもない自己撞着(じこどうちゃく)を犯した事になる。

 

この問題では島根県が孤軍奮闘、獅子奮迅の働きをしている。平成17年(2005年)3月、竹島に関する島根県告示100周年を機に、「県民、市町村及び県が一体となって領土権の早期確立を目指した運動を推進」し、「国民世論の啓発を図る」ことを趣旨とした県条例が議員提案により制定されました。

竹島年表戦後編

1904.9.29(明治37年)

中井養三郎、内務・外務・農商務省に竹島の領土編入と貸下げを出願

1905.1.28(明治38年)

閣議で竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とするを決定

2.22

島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称と所管を告示

5.17

島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録

6.5

島根県知事、中井養三郎外3名に対しアシカ漁業の許可をする

7.22

海軍人夫38名竹島に上陸し、仮設望楼を建てる

8.19

島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察

1906.3(明治39年)

島根県第3部長神西由太郎外43名、竹島の実態を調査

1939.4.24(昭和14年)

島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決

1940.8.17(昭和15年)

島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ

1945.11.1(昭和20年)

海軍省消滅に伴い、竹島は大蔵省所管になる

1952.1.18(昭和27年)

韓国大統領李承晩、海洋主権宣言(李承晩ライン宣言)により竹島の領有を主張

1953.6.27(昭和28年)

島根県、海上保安庁協働で竹島を調査し、韓国人6名に対し退去命令をし、領土標識(木柱)を建てる

1954.9.25(昭和29年)

日本政府、竹島問題の国際司法裁判所への付託を韓国に提議

1965.6.22(昭和40年)

日韓基本関係条約調印、竹島問題は解決せず

1965-1976(昭和40年-昭和51年)

島根県知事、県議会議長連名で国に対して竹島の領土権確保を要望

1977.3.19(昭和52年)

島根県議会、竹島の領土権確立及び安全操業の確保について決議

4.27

島根県竹島問題解決促進協議会(促進協)設立

1977-1955(昭和52年-平成7年)

促進協、国に対して竹島の領土権の確立及び安全操業の確保を要望

1987.3.11(昭和62年)

竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議設立

1982-現在(昭和57年-現在)

国への重点要望として竹島の領土権及び安全操業の確保を要望

2004.3.15(平成16年)

島根県議会、国における「竹島の日」制定について意見書を採択

10.25-26

島根県、「竹島の日」制定を国へ要望

2005.3.16(平成17年)

島根県議会、本会議で「竹島の日を定める条例案」を賛成多数で可決

3.25

島根県知事、条例を公布・施行

島根県条例第36号

竹島の日を定める条例(平成17年3月25日 公布・施行)

(趣旨)

第1条 県民、市町村及び県が一体となって、竹島の領土権の早期確立を目指した運動を推進し、竹島問題についての国民世論の啓発を図るため、竹島の日を定める。

(竹島の日)

第2条 竹島の日は、2月22日とする。

(県の責務)

第3条 県は、竹島の日の趣旨にふわさしい取組を推進するため、必要な施策を講ずるよう努めるものとする

附則

この条例は、公布の日から施行する。

 

最後に証言、漁業関係者の思いのなかから引用する。

 

橋野敬之助さん(77)―浜田市元浜町― 拿捕されて3年故郷を思う。

 

あと10日ほどで、新年を迎える1954年12月21日夜。対馬沖で操業中の底引き網漁船に機関長として乗っていた橋野敬之助さんの耳に突然、威圧的な声がとどろいた。「外に出てきたら撃つぞ」。流ちょうな日本語だったが、ただならぬ事態であることは、いやが上にも分かった。視線の先には、韓国・海洋警察隊の警備艇から乗り移ってきた警察官が、こちらに向けて構える銃があった。拿捕された瞬間だった。

 

橋野さんが乗っていた浜田の漁船「第3平安丸」(10人乗り組み)は、主船の「第5平安丸」とタラ漁の網を引き揚げる最中。約1カ月前、浜田の漁船が島根県内で初めて拿捕され「気を付けていたが、この時は油断し、明かりをつけたまま操業していた。まさか捕まるとは思ってもみなかった」という。第5平安丸は逃げて無事だった。

 

釜山に連行された後は、警察官の監視の中、船中で1泊し、海洋警察隊の拘置所での1週間を経て刑務所へ。乗船者のうち、1人いた未成年者こそすぐに帰されたものの、裁判の結果は、船長が禁固1年、機関長と甲板長が同10カ月、船員が同8カ月の実刑だった。

 

刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。「6畳の板の間に30人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから、1日中部屋にいなければならず、つらかった」。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗末。30人がおけ1杯の水で、1日を過ごさなければならないのもこたえた。

刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷に帰れず、釜山の外国人収容所へ移送。刑務所に比べ、制約は緩やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。見えない行く末が不安を増幅させた。

 

そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒やした。

 

帰国が許されたのは58年1月。船で下関に向かう途中、迎えに来た巡視船のスピーカーから流れた「皆さん長い間ご苦労さまでした」という言葉が、凍てつくような寒さを和らげた。「帰ってこられたという実感がわき、涙が止まらなかった」。そして、念願の家族との3年ぶりの再開を果たした。

「悪夢」を味わった海だが、橋野さんが再び船に乗り込み、対馬沖へとへさきを向けるまで、時間はかからなかった。船所有会社の出資者の1人でもあった。「漁師というのは、魚が豊富にいると、どうしてもそこへ行きたくなる。それに、日本として李承晩ラインを認めていなかったし…。しかし、正直に言って、また拿捕されるのではないかと、常に不安が頭にあった」

 

 

船を下り、約20年の歳月が流れた今も、拿捕、拘置された苦しみの日々を忘れることはできない。「収容されていた3年余りは、本当に無駄な時間を費やした」。